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セントレアのちょっと北「愛知県常滑市大野町」のまちおこしブログ

「佐治与九郎覚え書」10

この小江の出産の噂は、江戸から遠く離れている丹波地方には一月ほど遅れて伝わった。
その日、巨哉こと佐治与九郎は所用あって柏原在へ出掛けて行ったが、柏原の城下の外れで、いずれも旅装束の十数名の騎馬の一団と出会った。
通行人たちは、その一団のために道を開いた。道はぬかるんでいた。与九郎は泥の飛沫をうけて、多少小癪に障る思いで路傍に立っていた。その時、与九郎の耳に、やはり傍に路をよけて立っている男の声がはいって来た。それによって、与九郎はいま自分の眼の前を過ぎて行く一団が、秀忠の室の男子出生を祝うために、この城からはるばる江戸へ出掛けて行く賀使の一行であることを知らされた。
与九郎はふらふらとその場に腰を下した。坐ってしまった時、自分でもどうしてそんなところへ坐り込んでしまったのか、はっきり判らなかった。
与九郎は多勢の通行人が怪訝そうに見返って行くのも構わず、虚ろな眼でそこに坐り込んでいた。その眼には、十三年前の自分の妻である。小江の、あまり美貌とは言えない、併し人を疑うことを知らないおおどかな顔が与九郎だけに見えていた。
与九郎にはもはや愛憎の観念はなかった。ただ、現在の秀忠の室である小江が、やはり昔のように自分に与えられている境遇に、たいして悦びもなくなく悲しみも感じずに坐っているのではないかという気がした。
そしてそんな彼女に、幸運というものが、今までもそうであったように、これからも、ゆっくりと着実な足取りでやって来るのではないかと思われた。
「徳川家は御安泰じゃ」
与九郎の口から、ふとそんな言葉が洩れた。皮肉でも自嘲でもなかった。若い頃の与九郎の声とは全く違った嗄れたものであった。小江の夫秀忠は将来将軍になるかも知れなかったし、こんど生まれた男児がそれに続いて将軍になるかも知れなかった。恐らくそのようなことも夢でなく、そのような幸運が小江を見舞って来るのではないかと思われた。
与九郎の予想通り、その後秀忠は二代将軍となり、小江の生んだ男児は三代将軍となった。
与九郎は寛永十一年九月26日七十歳で京都に歿しているが、どうして京都に住むようになったか、その間の消息は判っていない。「長徳院快岩巨哉居士」というのが彼の戒名である。また与九郎が師崎の千賀家に預けたおきた、おぬいのその後のことも判っていない。ただこの二人の娘たちが住んだ須佐村付近を「おきた脇」と呼ぶことはかなり後年まで続き、そこに聞母とは異なって不幸だった二人の娘が住んでいたことを物語っていた。(おわり)

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佐治氏の事

佐治与九郎の子孫佐治善夫が2008年5月1日死去武蔵野市境南町
与九郎子孫の詳細お知りの方。お知らせお

山内保美 | URL | 2008年05月27日(Tue)10:05 [EDIT]


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| | 2008年10月05日(Sun)18:07 [EDIT]