与九郎一成の危惧は間もなく現実となって現れた。
秀吉からの使者が来たのは、小江が大野城を発って行ってから二十日程してからだった。小江が淀城で発病し、当分帰れないから承知して貰いたい。こういう使者の口上だった。
口調は鄭重であったが、一方的な通告であった。それから更に十日程して小江と一緒に行った侍女たちだけが帰されて来た。侍女たちは淀城へはいってからの小江については何も知っていなかった。彼女たちは城へはいると同時に小江とは離されてしまい、そこで退屈で不安な何日かを過し、それでも最後に一通り都を見学させて貰って帰されて来たのであった。
与九郎はかねて覚悟していたことではあったが、秀吉に対して烈しい怒りを覚えた。併し、どうすることもできなかった。織田信雄にも使者を立てて相談したが、そのままにして成行を見ている以外仕方がないだろうということであった。
明けて天正十八年に、小江を取り上げられた佐治与九郎には更に決定的な悲運が見舞って来た。それは彼の主である織田信雄が奥州へ国替えさせらると同時に、与九郎はその居城大野城を召し上げられることになったのであった。多年秀吉とよくなかった信雄も思いがけない秀吉の報復を受けたわけであったが、それと一緒に与九郎の方も片附けられててしまった恰好だった。与九郎は城を出なければならなかった。死を賜らないことがせめてものめっけものと言わねばならなかった。延文年間以来代々地方の豪族として、知多半島一帯の地に勢力を張っていた佐治氏は、ここに滅亡の運命に立ち到ったのであった。
大野城を失った佐治与九郎一成は、浪々の身を一時血縁の関係にある師崎の千賀家に寄せたが、おきた、おぬいの二人の娘をそこへ預けて、自分は伊勢の安野津城主の織田信包(のぶかね)を頼った。信包は与九郎の伯父に当る人物であった。そしてそこで与九郎は無役のままで、五千石の棄扶持を与えられた。(つづく)
秀吉からの使者が来たのは、小江が大野城を発って行ってから二十日程してからだった。小江が淀城で発病し、当分帰れないから承知して貰いたい。こういう使者の口上だった。
口調は鄭重であったが、一方的な通告であった。それから更に十日程して小江と一緒に行った侍女たちだけが帰されて来た。侍女たちは淀城へはいってからの小江については何も知っていなかった。彼女たちは城へはいると同時に小江とは離されてしまい、そこで退屈で不安な何日かを過し、それでも最後に一通り都を見学させて貰って帰されて来たのであった。
与九郎はかねて覚悟していたことではあったが、秀吉に対して烈しい怒りを覚えた。併し、どうすることもできなかった。織田信雄にも使者を立てて相談したが、そのままにして成行を見ている以外仕方がないだろうということであった。
明けて天正十八年に、小江を取り上げられた佐治与九郎には更に決定的な悲運が見舞って来た。それは彼の主である織田信雄が奥州へ国替えさせらると同時に、与九郎はその居城大野城を召し上げられることになったのであった。多年秀吉とよくなかった信雄も思いがけない秀吉の報復を受けたわけであったが、それと一緒に与九郎の方も片附けられててしまった恰好だった。与九郎は城を出なければならなかった。死を賜らないことがせめてものめっけものと言わねばならなかった。延文年間以来代々地方の豪族として、知多半島一帯の地に勢力を張っていた佐治氏は、ここに滅亡の運命に立ち到ったのであった。大野城を失った佐治与九郎一成は、浪々の身を一時血縁の関係にある師崎の千賀家に寄せたが、おきた、おぬいの二人の娘をそこへ預けて、自分は伊勢の安野津城主の織田信包(のぶかね)を頼った。信包は与九郎の伯父に当る人物であった。そしてそこで与九郎は無役のままで、五千石の棄扶持を与えられた。(つづく)

