歴史とロマンの町 大野町へ行こう!

セントレアのちょっと北「愛知県常滑市大野町」のまちおこしブログ

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大野でドラマ撮影 youtubeより

前回紹介した、東海テレビの昼の帯ドラマ「嵐がくれたもの」(13:30放送)
の大野町ロケ風景がyoutubeにありましたので貼っちゃいます。



よく見たら、知り合いの大谷さんが作ったものでした。
BGM付き写真も綺麗でカッコいい~。
私の知ってる人も結構写ってました。

下の写真は大谷さんのうちで主役に取材した時の写真だそうです。
前、大野に来たマナ・カナちゃんも綺麗だったけど、この人も綺麗ですね。
呼んで欲しかったなあ。

otani1.jpg

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大野の「大政」を追え! 17(最終回)

大政が大野出身である証拠資料発見
「大政は大野の廻船問屋に生まれ、名は原田熊蔵」
しかし、原田という名の廻船問屋が大野には見当たらない。
本当に大政は大野出身なのだろうか?ではじまったこのコーナー。

ついに、大野にある原田という名の廻船問屋とみられる資料を見つけました。
関係者にそれを見せ、まずまちがいないだろうということで公表します。
hiranokekomonsyo1.gif
上の資料は、大野の大庄屋である「平野家古文書」の一部です。
これを現代文に直すと
hiranokekononsyo2.gif
となります。
この資料は、明和9年(1772年)8月、尾張藩の要人が大野に訪れた際いろいろもてなしたことが書かれています。
左下の連名の人達は16日お昼にお酒やお吸い物で接待した人たちです。
当然当時の大野の実力者達です。
この中に「原田喜左エ門」「原田竹吉」の名があります。
ついに大野の文献で「原田」の名を見つけました。
この原田が廻船問屋であるかどうか?

kizaemon.gif
上の図は、享保年間(1716~1735)の大野地図です。
「竹吉」は見当たりませんが、「喜左エ門」はあります。(中央。洞仙寺向かい)
「平野家古文書」とこの地図とは約50年の開きがありますが、江戸時代の大野の実力者は代々同じ名を名乗ります。
また、この「喜左エ門」のいた通りは廻船問屋が沢山あった通りだということです。
実力者で廻船問屋が沢山あった通りに住む原田喜左エ門は、廻船問屋である可能性はかなり高いと言わざるをえません。

よって、次郎長研究家・勝瀬光安氏(故人)が調べられた「大政は大野の廻船問屋に生まれ、名は原田熊蔵」はまちがいないものと思われます。
皆さんいかが思われますか。

これにて、このコーナーは終了します。
この資料を閲覧させて頂いた江端健一氏をはじめ、今までいろいろご協力いただいた皆さんに
感謝の意を申し上げます。ありがとうございました。
大政を通したまちおこしは地元の人たちに判断を委ねます。

補足ですが、西さんから新しい情報を頂きました。
次郎長の子分に大野出身はもう一人いる。
その名は、桶屋の鬼吉。
大野に生まれ、乙川の桶屋に育ち、緒川の勝五郎の子分となり、後に次郎長一家に入ったとのこと。
これまた、地元では桶屋の鬼吉が大野出身であることは聞いたことがありません。
我と思わん方、「大野の鬼吉を追え!」を挑戦してみませんか?
(終わり)

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「知多半島のふしぎ物語」セミナーを受講しよう!

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●受講ご希望の方は、熱田の森文化センターもしくは【当会事務局】にご連絡ください。
●毎月第3火曜日10時~12時 
西まさる+当会の幹事の組み合わせで「知多半島のふしぎ」を中心にお話します。

●第1回は、10月20日(火)10時~

『にっぽん音吉』=知多半島の船乗りで太平洋を14ヶ月も漂流。北米で原住民の捕虜に。以降、 日本人で初のロンドン上陸。世界初の和訳聖書の作成。日英和親条約の締結に尽力。しかし、日本に 帰還の際は上陸直前、幕府の大砲で追い払われ(モリソン号事件)、ついに帰国を果たせなかった悲運 の人でもあります。その漂流から晩年までの数奇な人生を辿ります。 
【担当・西まさる】


『トヨタ発祥の地・半田』=世界のトヨタの創始者・豊田佐吉は、今の半田市乙川で明治28年、豊 田式新型力織機を発明、世界に羽ばたいて行ったのです。それを援助したのは乙川村の実業家・石川 藤八。知 られざる豊田源流の男たちの苦悩と活躍を語ります。
【担当・小栗照夫】


◎2回以降、伊藤正治、黒田鋭三、竹内雄幸がそれぞれ「知多半島のふしぎ」を語ります。

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織田信孝の密葬先は、大野・海音寺

信長の三男・織田信孝は、天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いで敗れると、知多半島の野間大御堂寺の持蓮坊に幽閉され、まもなくそこで自害します。
信孝の家臣・太田牛一は密かに大野の海音寺で信孝の葬儀を営みました。
信孝像を彫り生前の信孝を偲びましたが、信孝像は火災で焼失、現在は位牌のみが残っています。
太田牛一は文才に長け、後に織田信長一代記「信長公記」を著した人物です。

kaionji1_20090913065704.jpg
海音寺:常滑市大野町3ー11tel 0569-42-0838

信孝の辞世の句は有名です。
「昔より 主を討つ身の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前」
意味は、こちらで

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寄稿「尾張大野の匂い」西まさる

尾張大野の匂い                 西まさる

知多半島をまったく知らなかった20年ほど前の私。それでも常滑市の名は知っていた。常滑は常滑焼で有名だし、あるいは常滑競艇場の宣伝などが脳裏に残っていたのかもしれない。そして、尾張大野の地名も知っていた。常滑も大野も行ったことのない土地だったが、なぜかこの二つの地名は知っていた。
常滑はともかく、尾張大野をなぜ知っていたのだろう。大野橋
日本最古の海水浴場があるから? いいえ、そんなことは最近知った。
かつては知多半島で最も栄えた町だったから? いいえ、そんなことは最近知った。
次郎長一家の大政や鶴吉の出身地だから? いいえ、当時は興味もなかった。
じゃ、なぜ? と考えれば、尾張大野という古い町が、あちこちの文献にその名が出ていて、いつの間にか脳裏に刷り込まれていたということだろう。それは、北海道の函館や夕張を見たこともない人でも、その土地をぼんやりと知っている… そんなことに似ている。いわば伝統のある老舗の町ということだろう。 知多半島に住むようになって最初に訪れたのが、やはり大野であった。十王堂の近くに車を預け、町中を歩き廻った。すごく狭い道、とてつもなく大きな銀杏の木、創業は江戸時代といかにも言いたげな二階建ての料理屋。それに、今にも廻船が入って来そうな湊。
私にとって魅力いっぱいの町並みであり、どこか懐かしい光景であった。そして町には堂々とした風格、すなわち老舗の匂いがあった。これがこの町「大野の匂い」だと思った。
やがて半田市に住むことになった私は、10数年、尾張大野に出かけることもなかった。
5年前のことだ。久しぶりに尾張大野に行った。狭い路地も大きな銀杏の木も健在だった。町並みは格段に近代化され、お寺がコンクリートの建物となっていたりして、やや戸惑いもあったが、「大野の匂い」は、まだしっかり残っていた。
この匂いはいつまで持つのだろう… ふと、そんなことを考えた。それは私の住む半田は尾張大野に匹敵する老舗の町のはずだが、すっかりそんな匂いは消えてしまっているからだ。いつ消えたのかも分からない。自虐的にいえば、古い蔵や運河を壊し、近代的な蔵や運河を造り、「蔵のまちだ」、などと言い出したあたりで半田から「老舗の町に匂い」は一気に消えたのだ。
尾張大野はいかがだろう。まだ匂いはしっかり残っている。また、古い町並みには手付かずの史跡や史実が埋まっていそうだ。これら宝物を掘り起こし、「尾張大野の匂い」を世に発信してほしいと思う。
かつての私のように、見たこともない尾張大野に憧れる人間も、まだまだ沢山いるはずだから。
(以上)


私はいつもうちから大野町を発信している。
外からみた大野町はどんな風にみえるのだろうか?
そんなわけで、あつかましく東京育ちで半田在住の西さんに訊いてみた。
地元では大野町だが、外からは尾張大野。なるほど。
例えば半田さんの古さは新しくつくった古さだが、大野は手付かずの古さ。なるほど。なるほど。
埋もれている「尾張大野の匂い」という原石をもっと磨いて、世に発信すること。
ものすごいエールを送っていただきました。
西さん、ありがとうございます。


John Lennon - Imagine

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老舗のジャズ喫茶 ブルーノート

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1973年開店の36年間続いている超老舗のジャズ喫茶です。
ていうか今はジャズ喫茶自体絶滅の危機に瀕して、他ではなかなかない。
おそらく知多半島内にあるジャズ喫茶はもうここだけではないでしょうか。
レコード4500枚。クレッシャンド(アルテック604E)のスピーカーで臨場感抜群。
壁にはいくつものジャズ奏者のモノクロパネルが所狭しと掛けられている。
「今は一日のお客さんはせいぜい一人か二人だけ」とのこと。
行けばいつも貸切状態。それでも営業している。
マスターの石井さん、とてもジャズがお好きなんですね。
実はここは高橋さんの青春の思い出の場。
手作りのアンプを作っては、友人達と音響の良さを競っていたそうです。
けだるくもの悲しげでエネルギッシュでエロティック。
ブルージィなノイズが響く空間に一度足を運ばれてみては。

住所:常滑市栄町5-14 tel:0569-34-3021p有 9:30~16:00年中無休


Autumn Leaves - Bill Evans




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伊勢湾内での捕鯨が、日本の捕鯨業の始まり?

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「張州雑志」(1770~1778)より

平成12年、ゴンドウクジラの群れが伊勢湾に入り込み、大騒ぎになりました。
しかし、昔はよく鯨が伊勢湾に入ってきて、江戸時代には湾内での捕鯨の記録がいくつか残っています。
今まで、日本の捕鯨の始まりは三河湾での捕鯨とされていました。
根拠は我が国最古の捕鯨専門書である「西海鯨鯢記(さいかいげいげいき)」(1720)に「元亀年中(1570~73)、三河国内海ノ者、船七、八艘ニテ沼崎辺ニテ突取ル。其の後丹後、但馬ニモ三河ノ者住テ之ヲ取ル、利無クテ止ム」と記されているからです。
しかし、南知多町郷土資料館の山下館長は三河湾でなく伊勢湾だと異論を唱える。
「三河国内海ノ者」の「内海」は「ないかい」でなく「うつみ」ではないかということ。
「三河国師崎」というまちがった文献もあるという。
現在でも名古屋の人でさえ、知多半島は尾張なのに三河と間違える人がいる。
その書の西海とは九州の西海のことである。
そして、「沼崎」とは今の「野間崎」ではないかとのこと。
地形からいっても三河湾より伊勢湾のような気が私もします。
皆さんはどう思いますか?


知多半島の捕鯨記録は、大野沖、横須賀まであるとのこと。
しかし、江戸時代後期になると捕鯨記録は殆どなくなる。
今では全く捕鯨は行なっていない。


ちのはじめ「やつらの足音のバラード」

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ブログ終ります。

taro.jpgブログ終ります。
2006年08月 から始まり、三年経ちました。
飽き性の自分がよく続いたものだと自身感心してます。
実は、開始当初は大野のことはよく知りませんでした。
しかし、多くの人に教えて頂き、このブログ続けてきました。
ブログを通して、いろんな経験したり、多くの人に出会えてよかったです。
ブログランキングの上下動に一喜一憂したり、コメントや拍手を頂いたことも嬉しかったです。
市役所や大学やテレビ局の人からの問合せもあり、驚きました。
とてもこのブログには愛着があります。
でも、ブログでまちおこしという使命はもう終わり、あとは皆さんの行動に委ねるべきだと思い、一つの区切りをつけさせてもらいます。
最近、いくら記事を積み重ねても、同じことを繰り返してるだけのような閉塞感を感じていました。
昨今ではブログの数も増え、結構、地元の情報を発信してくれます。
一方当ブログは、趣旨であるまちおこしより郷土史研究にウエイトがシフトしつつあります。
大野は歴史のいっぱい詰まった町です、ですからこの流れは自然なのかなとも思っています。
暫く休んで、いつかまた別の形でお目にかかりたいと思っています。
皆さん、長い間ありがとうございました。


Superfly - 愛をこめて花束を

追記
写真の犬は、ペットのタロです。
ご存知ない方もいらっしゃると思いますが、
このブログの最初の頃は、この写真をプロフィールの写真に使っていまいた。
ハンドルネームの一部も彼の名から取りました。
彼は2007年5月20日亡くなりました。
天国から、久々の登場です。
さぁ、タロも挨拶して。え、エサがほしいだぁ?

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