歴史とロマンの町 大野町へ行こう!

セントレアのちょっと北「愛知県常滑市大野町」のまちおこしブログ

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大野の「大政」を追え! 9

仮説を立てる 1

いくら調べても、大政の出生がわからないまま、一年以上が過ぎた。
もうこのままでは結論が見出せないと思い、私はNさんに泣きついた。
「調べ方を教えて下さい」
Nさんはプロのルポライターで、調べることには天下一品だ。
「まず仮説を立てて、それを立証するというやり方でやってごらん」
とNさん。
「なるほど」
私もそれなりに調べている。その調べたことを繋ぎ合わせて、ひとつの仮説を作ってみよう。

・大政が尾州大野湊の出身であることは次郎長研究家の勝瀬光安氏(故人)よるもので信憑性が高い。
・次郎長は大野湊でよく博打を打った。
・次郎長の最初の子分は大野の鶴吉である。
・大野には「原田」という名の廻船問屋は見当たらない。
・廻船問屋の名を汚したくないという理由で、「原田熊蔵」は偽名であるという可能性は否定できない。
・大政は大柄な体格である。
・大政は草相撲を取っていた。当時相撲と任侠は係わり合いがある。
・大政は温厚な性格で人望が高かった。
・東海遊侠伝は、嘘はかかれてないが、次郎長の都合の悪いことは書かず、次郎長を美化している節がある。
etc

これらを繋ぎ合わせると、大野のある廻船問屋が浮かびあがった。
仮説は次回述べる。
(つづく)


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大野町役場発行の観光パンフレット

satsuma0010.jpg

ssatsuma10.jpg 中面

常滑市制前の、大野町役場発行の観光パンフレットです。
五つ折。
「世界最古の海水浴場・大野」が町の目玉になっていますね。
資料提供は江端健一さんです。
ありがとうございます。

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大野の「大政」を追え!10

仮説を立てる 2

次郎長研究家の勝瀬光安氏(故人)が大政の戸籍を御確認されたということだが、なぜか大野に原田という姓の廻船問屋は見あたらない。
ならば、もしかして戸籍に記載されたその姓は偽名ではないか?という推測をしてみる。

大政は江戸時代の1831年(天保2年)生まれ。
戸籍制度が制定され、役所に記録が保管されるようになったのは、明治5年(1872年)。
それ以前に生まれたものは、自己申告制だから、本人によるいい加減な申告は不可能ではない。
生年月日だって、次郎長をはじめ、次郎長の子分たちは1月1日生まれが沢山いると聞く。
そんな偶然があっていいものか。
「俺の誕生日?そんなの覚えてねえよ。どうしても言えだあ?じゃあ、元日にでもしてくんな」
当時は、そんな感じじゃないのだろうか。
「実家の廻船問屋の名を汚したくないという理由で、戸籍に偽名を申告した」ということは考えられないだろうか。
「だったら、生まれ故郷だって偽ればいいじゃないか?」
それはそうだが、姓名とは違い、住所は必ずそこが存在しなければならなく、いい加減な地名・番地は言えない。
又、清水の次郎長を始め、大野の鶴吉・舞阪の富五郎 ・ 寺津の勘三郎 ・吉良の勘蔵 ・ 四日市の敬太郎 ・ 由井の松五郎・興津の盛之助・緒川の勝五郎 等々、次郎長一家の者は生まれ故郷の地名が名前についている者が多い。安易に生まれ故郷を偽ろうとするだろうか。
大政だって、小政がいるから大政ではあるが、小政が次郎長の子分になる前は大政ではないはず。
大野の政五郎だったかもしれない。
私は、大政が生まれた住所まで虚偽申告することは可能性として極めて低いと考える。

では、原田ではない大政の廻船問屋とは、いったいどこの廻船問屋であろうか?
以前、高橋さんに大野にはどんな廻船問屋があったか教えてもらったことがある。
その中で、私は一軒の廻船問屋に注目した。
実は私は大野の鶴吉の子孫の人をよく知っているのだが、本当に写真の鶴吉に顔が似ている。
私が注目した、その子孫の方も大政に容姿・体格が似ているのだ。
仮に、その廻船問屋をX屋、その子孫の方をYさんとしよう。

私はYさんに会っていろいろ訊ねてみた。
Yさんは江戸時代の先祖が営んでいたX屋のことはよく知らないとのこと。
そりゃそうだ。私だって自分の江戸時代の先祖のことなんか全く知らない。
ただ、幕末の慶応生まれの祖父は大柄で大酒飲みだったそうだ。
大政も大柄で大酒飲みだ。
祖父の写真をみせてもらう。確かに大柄だが大政ほど太ってはいない。しかし、大政は暴飲暴食がたたって特に太ってしまったのかもしれない。顔のパーツは、いくつもある大政の写真はからいまいちよくわからない。
しかし、面長の顔の輪郭はしっかりそっくり。

Yさんが以前とりよせたという戸籍謄本を見せてもらう。残念というかやはりというか、慶応生まれの祖父からしか始まっていない。その一代前が知りたいのに・・・。
さらに私はしつこい。Yさんと一緒にYさんの檀家の寺まで行き、過去帳を調べさせてもらいに行く。
過去帳の中に書かれているYさんの先祖は容易に見つけられた。「X屋」の屋号も書かれていたからだ。
しかし、当り前だが、亡くなった人の名はあるが生まれた人の名はない。よって大政や熊蔵らしき名はあろう筈がない。大政の墓は清水にある。俺は何をやってんだ。
だが瓢箪から駒、わかったことがある。X屋は代々「九郎右衛門」を名乗っていた。
Yさんの名字は「○○ta」、そして「ku○○○○○(くろううえもん)」
「原田熊蔵」も「○○ta ku○○○」
偽名をかたる時、何か自分に関連のある名にする可能性があるとどこかで聞いたことがある。
以上の推測から、私は「X屋」と大政が関係があるような気がしてならないのだ。
(本当は、Yさんと静岡にお住まいの大政の子孫の方の髪の毛を一本ずつもらってDNA鑑定したいのだが、私にはそこまでやれるお金がない。)
また、私はもう一歩先も考えている。
「X屋」と関係あっても、「原田熊蔵」が本名でも構わない場合もある。
大政が「X屋」の妾の子だという場合だ。
次回からは「仮説・次郎長と大政との出会い」を述べ、それで、このコーナーを終わりにしたい。
(つづく)

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11年度のNHK大河ドラマは「お江」

ビッグニュースが飛び込んできた。Nさんなら「えらいこっちゃ」、高橋さんなら「ものすごい情報がある」、名古屋弁丸出しの人なら「こりゃどえりゃー事だで」と表現するであろうニュース。
もう一度言う。ビックニュースが飛び込んできた。

11年度のNHK大河ドラマは、大野に係わり合いがある「お江」(大野城主・佐治一成と結婚した)が題材になるというのだ。脚本は、女優・宮崎あおい主演で高視聴率を獲得した『篤姫』を担当した、田渕久美子さんのオリジナルで放送される。
前に、将来大野を舞台としたNHK大河ドラマがあるといいなというような記事を書いたが、なんとそれが現実になろうとは驚きである。
ぜひ、地元およびその近隣は、このチャンスをまちづくりに活かしてもらいたい。
いや活かさなければいけないと思う。

また、おこがましいかもしれないが、田渕久美子さんとぜひお会いして、お話がしたいという衝動にかられている。
実は今、「大政」の次に書くつもりで、「お江」と「与九郎」のことを調べている。
今までの史実の矛盾とかを伝えたい。
「佐治与九郎覚書」と「乱紋」だって話の流れが違っている。
まだまだ勉強中ではあるが。

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聖はじめさんを応援してください。

歌手の聖はじめさんから「ねえ、あんたのブログに載せてチョーダイ」という依頼の電話があった。
私はちょうど寝起きでボケてて、彼の言ってる内容がよくわらなかった。
とにかく、彼のミクシィに書かれていることをそのまま抜粋すればいいと言われたのでそうすることにする。

hajime-pr.jpg

(はじめちゃんのミクシィより)
なぜか「SUMMER SONIC 09」の一般出演公募にエントリーしてしまいました
一般のネットユーザーによる投票数によって出演できるそうですので是非、投票に、皆様ご協力くださいませ(PC限定です)
http://emeets.jp/pc/
↑をクリックすると投票サイトに入れます。
サイトから入ったら、 まず「アーティスト検索」に「聖はじめ」か「MISO-KATU」と入れてクリックしてください
そしてMISO-KATUページが出たらバンド名(MISO-KATU)をクリックして頂くとVTRページが出ますので 右側にある投票ページの「投票」をクリックして下さるだけでOKでございまする
追伸:↓これをクリックしていただくと直ぐMISO-KATUページに飛びますので「MISO-KATUデビュー」の方にポチっとしていただけると助かります
http://emeets.jp/pc/artist/1409.html
同じ人に1日1回(7月6日で投票終了)の投票が可能との事ですので、出来ましたら、毎日の日課に1クリックしていただけると とっても嬉しい限りです
それとマイミクのMORZY@BRIMARさんもエントリーしてますのでアーティスト検索に「BRIMAR」で、こちらも同時にポチッとクリックしていただけると嬉しい限りです


ということですので、
皆さん応援よろしくお願いします。

数時間後・・・
あっそういう意味か。てっきりB級グルメ大会か何かでオリジナルの味噌カツ料理でも出品したかと思った。
そういえば、はじめちゃん、半年位前に新グループ立ち上げて東京進出するようなこと聞いたことがある。
そのグループ名が「MISO-KATU」なんだ。知らなかった。失礼しました。
皆さんぜひ、http://emeets.jp/pc/artist/1409.html ←のページの右側にある「投票する」というボタンを毎日一回クリックしてください。
そして彼らを「SUMMER SONIC 09」の舞台に立たせてやってください。
(特に大票田である竹内外恵バレエ教室のなおちゃん、半田郷土史研究会の西さん、会員全員にPRお願いします。また他の方もお知り合いにもぜひPRお願いします。)

追伸
私のブログランキングの方も同様にクリックお願いしま~す。





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大野の「大政」を追え!11

仮説・次郎長と大政との出会い 1

次郎長の任侠デビューは遅い。
天保13年(1842)の秋、23才の時だ。
次郎長は大きな米屋の若旦那だったが、喧嘩や酒が原因で店を勘当され、無宿者となる。
遊び仲間の江尻の熊五郎、庵原の広吉を従え、向かった先は、三河寺津(西尾市)の治助親分のところ。
以前、彼は次郎長の家に厄介になったことがあり、その縁で、次郎長は彼のもとに身を寄せる。
昼は、今天狗と呼ばれた剣術の達人・吉良の武一について剣術を学び、夜は賭博に明け暮れる。
こうして、次郎長は侠客の道に入っていったのだ。
次郎長は特にサイコロ賭博の腕をメキメキ身につける。連戦戦勝。
そんなある日、次郎長は賭博で大負けして困っている一人の男の負け分を立て替えてやる。
その男の名は鶴吉。同じ治助親分に身を寄せてるものだ。
「すまねえ、次郎長兄貴。この借りは必ず返しますから」
「気にすんな。同じ釜の飯を食ってる仲じゃねえか。ところで鶴吉。てめえの国はどこだったかな」
「尾州の大野湊(現愛知県常滑市大野町)です」
「ほう、いいとこじゃねえか。ここから5里ほどで、そう遠くはねえな。どうだい今度案内してくんねえか」
「お安い御用で」
次郎長は観光が目的ではない。
当時、大野湊は海運業で随分繁栄していた町であり、賭場が10箇所ほどあった。次郎長はいつまでも寺津の賭場ばかりで勝ち続ける訳にはいかなく、別の土地の賭場も探していた。
鶴吉もそれを充分承知していた。
その後、鶴吉は常に賭場に行く次郎長に帯同するようになり、いつの間にか親分子分の間柄となる。
弘化2年(1845)、次郎長は、遠州川崎で争いごとから負傷。傷を直して清水に帰る。津向の文吉と和田島の文左衛門が庵原川で対決しているところを仲裁し、一挙に侠客としての名声が高まる。
そして、翌弘化3年(1846)8月上旬。
「おい、鶴吉。今、大野は潮湯治客で人が一杯の時期だろ。一稼ぎしに行かねえか」「わかりやした」
次郎長と鶴吉は久しぶりに大野に向かう。
後の大政となる少年・熊蔵と会うのはその時だった。
(つづく)

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月刊「大野町ばかり行かない」 5号

「不可能を可能にする方法」

「出来ないと言うことは、出来ると言うよりずっと難しい。
ひとつでも可能性があれば出来ると言えるけれど、
可能性を全て探らなければ出来ないとはいえないからだ 」

この名言は、新幹線をつくった男・島秀雄の言葉だ。
とかく、固定観念や先入観で、最初から「駄目だ」とか「無理だ」とか言ってないだろうか。
勝手に不可能だと決め付けていないだろうか。
私の周りにはそういう人がいる。
そういう人に限って、私がやってしまうと
「そんなの誰だってできるがや」という態度をとる。
志とか目標が持ったら、この島さんの言葉を私は思い出してみる。
案外できちゃう場合が多い。

ちょっとトレーニング。
あなたは、指輪を手で触れずに上に移動することができますか。
下のマジックの動画を見てください。


Cyril-佐藤政道-魔術教學-戒指上升術 @ Yahoo! Video


タネがわかれば「なあんだ」ですよね。
でも世の中そういう場合が多いのです。
まずは最初から不可能と決めつけるのは止めましょう。

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大野の「大政」を追え!12

仮説・次郎長と大政との出会い  2

江戸時代の大野村は海運業で賑っていた。
「寛文覚書」(1660年頃)によると村の持つ廻船の数は知多一で、半田村35に対して、大野村65にもなっている。
特に「洲岬(スザキ)屋」(仮称)は大野の廻船問屋の中でも最も栄華を極めた。
「大野湊に洲岬屋が荷を降ろさない日はない」とまで言われた。
天明時代(1785年頃)、大飢饉より尾張藩は財政が貧窮し、藩内の豪商たちに上納金を申しつける。殆どの豪商たちは数十両だが洲岬屋だけが二百両と特出している。
そんな洲岬屋も幕末になると徐々に商売に翳りが見え始める。さらに悪いことに洲岬屋の廻船が時化に遭い、沈没。一挙に大きな損害を被り、経営は悪化の一途を辿った。

そんな洲岬屋の旦那・九郎右衛門には長年連れ添った妾がいた。
元芸者で名をお凛(りん)という。二人の間には熊蔵という男の子がいる。
ある日、九郎右衛門はお凛の元に行く。
「おまえさん」「お凛はじっとしてろ」
お凛はここ半年ほど前から病の床に伏していた。
「大丈夫ですよ。お茶くらい出しますよ」
「今日は熊蔵に用があってきた。熊蔵、大きくなったなあ。いくつになった」
「15になりました」
「そうか。熊蔵は頭もいいし、人徳もある。おまけに体も俺に似て大柄で丈夫だ。いずれ、洲岬屋の番頭になってもらいたかった。しかし、もう洲岬屋はだめだ。それどころか、お前たちを養うこともできない。いいか。これからはおまえが母を守れ。おまえは男だ。裸一貫自分の道は自分で切り開け」
「はい」熊蔵は小さくうなずく。
「もうこれが最後だ。大事に使え」九郎右衛門は5両を手渡す。1・2年は暮らせる大金だ。
「父上、このお金は受け取れません。こんな時期ですから、洲岬屋のために使ってください。今までも充分すぎるほど面倒みて頂きました。寺子屋までいかせてもらって学問までさせてもらいました。ありがとうございます。これからは父上がおっしゃったように裸一貫自分の道は自分で切り開きます」
「お凛、おまえは熊蔵を立派に育てやがって」
「そりゃ、おまえさんがくれた宝物だもの。ちゃんと育てなきゃバチがあたるよ。私だって元は大野一の芸者だよ、少し位の蓄えはあります。どうぞその金は引っ込めてください」
「すまねえ」
「そうだ、久しぶりに私の三味線聴いておくれ」
「無理すんな」
「大丈夫だよ、私、弾きたいんだよ。特におまえさんの前で。弾かせておくれ」
お凛は、当時北前船の船頭達がよく唄っていた下津井節を唄う。彼女は、その唄に大野の句をいれ替え歌で唄うのが客に好評だった。

♪大野よいとこ磯馴の松 銀のいさごに チョイト 波が散る
         ヨイヤサ ヨイヤサノ ヨイトサー アノサ ・・・

お凛が作ったこの句は後々まで唄い継がれる。
そして、後年、「大野音頭」の歌詞にとして大いに参考にされる。
(つづく)

「大野音頭」 ←クリックすると曲が流れます。


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