歴史とロマンの町 大野町へ行こう!

セントレアのちょっと北「愛知県常滑市大野町」のまちおこしブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

PageTop

尾張大野の歴史(高橋さんの資料より)

大野の歴史が詳しい高橋さんの資料を公表します。
現在体調崩されてるみたいです。早く良くなってくださいね。

尾張大野の歴史
IMG_9872.jpg大化の改新(645)  
☆里制がつくられ蕃賀(日長)の里に入れられた。
神亀2年(725)  
☆里が郷になり蕃賀郷となる。
鎌倉幕府時代 (1192~1333)  
☆荘園ができ、八條院判官代 大野頼清が京都よりこの地を収め初めて大野の名が歴史上現れ大野荘ができる(尾陽雑記に系図が記載されている)
☆承久の乱(1221)後、北条方の領地となり大佛氏・金澤氏がこの地を治め兵糧所となった。
☆南北朝時代には大野荘は北朝の支配下にあった。
室町幕府時代から戦国時代(1338~1600)
☆一色氏・佐治氏へと実権が移る。一色、佐治の両氏が治めていた時代には城下町として栄え、各種の産業も芽生え佐治氏のときは文化も進みいくつかの歴史上の物語を残した。
天 正(1573~1592)
☆このころまでは(湊村)と呼ばれて、天然の良港を控えた村という意味で呼ばれていたし矢田川は湊川、大野橋は湊橋又は大江橋とも呼ばれた。
江戸時代 (1603~1868) 
☆慶長13年(1609)検地帳には大野村とあり、このころから使われだしたと考えられる。
☆藩政治下の時代は平野氏がこの地を治め産業、経済、文化共に爛熟し大いに栄えた。
☆各種の産業が大野を中心におこり知多半島における産業経済の中心としてその地位を築く。
☆戸数と人口
       寛永12年(1635)   750戸   3,402人
       天明 元年(1781)   750戸   2,161人
       明治20年(1887)   558戸   2,277人
昭和50年(1975)   830戸  3,245人
平成16年(2004)   675戸  1,805人(外国人も含む)
☆天明元年(1781)の字名
       市場町、鍛冶町、十王堂町、橋詰町、高須賀町、権現町
☆産 業 
大野鍛冶   応保元年(1161~)江川から農具、武具、船関係のものを作る。
時 計    天保年間(1830~1844)井上恵春が長崎から帰り広める。              
酒     元禄年間(1688~1704)木下右衛門が酒蔵を造り酒作りが始まる。
味噌、たまり 元禄年間(1688~1704)三河の人、宗平 宗休が醸造を始める。
木 綿     慶長年間(1596~1615)綿屋六兵衛が綿の栽培を始める。
         濱島伝右衛門木綿問屋の豪商として地位を築く。
紺 屋、    綿、糸を噤む、織物と付随して起こる。
晒 屋    綿布を真っ白にさらして伊勢松坂や江戸に送る。
海運業    元和3年(1617)以来廻船総庄屋を中村権右衛門が務め大いに繁昌した。

☆観光面でも古くから海水浴場『潮湯治(病気治療)』として知られている。
   「生魚の御あえもきよし酒もよし大野のゆあみ日数かさねむ 鴨長明」 承元4年(1210)
二代将軍秀忠や弟福松丸(最後の清洲城主・松平忠吉)が慶長年間(1596~1615) 潮湯治に来る。

明治元年(1868)          明治維新により庄名は無くなり大野村となる。
明治22年9月24日(1889)    大野町となる。
昭和29年(1954)         常滑市となる。
平成16年(2004)         市制50周年

スポンサーサイト

PageTop

大野鍛冶(高橋さんの資料より)

大野鍛冶
大野鍛冶は、応保元年(1161)に江州辻村の鍛治8人が伊勢へ移り住み、その内の6人が知多郡大野へ来て鍛冶を始めたのが起源だと伝えられています。
大野か鍛冶の記録を残すのは天正20年(1592)の大野村の検地帳(尾洲智多郡大野内湊村御検地帳)にかじやの肩書きを持つ名前12名が載っている。
この中世末に12軒のかじやがあったのは古い時代から栄えていた証拠である。
元禄10年(1697)大野鍛冶庄屋 小田井喜衛門は、掟を定めた。当時彼の記録では知多郡の鍛冶仲間は100軒を越えており仲間以外にも鍛冶を営む者もおり、得意先をめぐり競争が起こり困っていると名古屋の時計師津田助左衛門に訴えている。
享保15年(1730)には農鍛冶・船鍛冶185名連判で、お互いの職域を侵さないことを定めた。安永2年(1773)には農鍛冶株147株を設け、株仲間には駒形の木札が渡された。大野鍛冶とはこの大野鍛冶仲間のことであり知多郡全域に広く分布していた。
享和2年(1802)には鍛冶135名おり、そのうち大野村62名、小倉村22名、西之口村18名、その他33名あったが大野村に多くあったのでこの名がよく知られている。
大野鍛冶は、住む村に仕事場を持ち仕事をするものと、他の村や国で仕事場を設けて出稼ぎに行くものがあった。出稼ぎの範囲も広く尾張国内、三河国、美濃国へと出かけたが、特に三河の国には鍛冶がなかったので多数出稼ぎに出かけた。出かける時期は春の彼岸から田植えまでと秋の彼岸から刈り入れまでの年2回であった。
大野鍛冶の得意とする技術はユザキ(湯先)で、鍬や備中の修理に貴重なはがねを用いず古い良質の鉄鍋や大釜を溶かして地金の先へつけるというものであった。
はがねよりも持ちがよいということで農民に喜ばれていた。

久米の鋳物師も古い歴史がある。「張州府志」によると久米村には代々鋳物師がおり、天福元年(1233)11月に賜った綸旨があると述べている。久米の鋳物師は、天正年間須佐村正取寺鋳物、慶長年間粕谷村鋳物、明暦3年中之江村性海寺大鐘、万治2年大野村光明寺大鐘、元禄年間久米盛泉寺鋳物、寛政8年伊勢宇治橋擬法珠等を鋳ている。この内各寺にあった大鐘は、第2次世界大戦中に供出を命ぜられ今では見ることができない。
天明6年(1786)尾張藩主が大野村へ潮湯治に来られたさい、鋳物道具をご覧になった。久米の鋳物師の名は尾張一円をはじめかくちにおいて高かった。
☆ 資料として『知多市誌資料編近世』の農鍛冶の項目に詳しいことが載っている。
☆ 農機具などの展示は『知多市民俗資料館』に多く解説展示されている。

takahasi1.jpg

PageTop

尾張大野の黒鍬(高橋さんの資料より)

尾張大野の黒鍬

☆ 黒鍬は、土木工事の技術者集団で各地に赴き現場で指導と労働に従事した。全国的にも同名で存在していて、現在でいうゼネコンによく似た組織であった。
 戦国時代には、今日で言う軍隊の「工兵隊」に当たる役割を果たしていた。
 江戸時代になると徳川幕府の職制に組み込まれて土木工事や火消しなどにも当たった。
☆ 大野黒鍬は、全国の黒鍬の中でも著名な集団で「知多の黒鍬」と呼ばれることもあったが、その中心は「大野の黒鍬衆」であったが軍事集団ではなかった。
 濃尾一円の干拓工事や河川工事に従事した。
 摂津や河内(大阪市内)に新田開発工事などにも活躍した。
 千葉県の印旛沼開拓にも従事した。
 「尾張詢行記」1790年代 によると、知多郡の黒鍬は、長尾村60人、宮津村50人、半田村50人、などと記録されている。
 播州 赤穂(兵庫県)で塩田築造にも従事した記録が残っている。
☆ 大野黒鍬は高い専門技術を身につけた集団で、鍬頭に率いられ各地に雇われてゆき3~12ヶ月以上に渡り工事に従事した。
 また、現地に居ついた人もいました。
☆ 季節稼げは、農繁期にこの集団に加わったりしたり、経験者を中心に組を作り土木工事を請け負った。現在の愛知、三重、近畿、関東一円など各所にその活躍の跡があり、季節稼ぎといっても高い技術を持って活躍したので高い評価を受けていました。
☆ 知多半島は雨が少ないため、灌漑用のため池を作ることが多くそのための大型土木工事の需要が多くあった。

takahasi2.jpg

PageTop

セントレアに西寶車・雷神車見参!

raijin2_20090107175310.jpg
1月4日、西之口のお囃子がセントレアのイベントプラザで披露され、来港者を喜ばせました。
raijin1.jpg
また、同地区の雷神車が、韓国やスリランカなど世界の正月を紹介するイベントの日本代表として参加し、人気を博しました。

PageTop

地元の横綱「大碇紋太郎」ベスト本1位に輝く!

keyv.jpg
http://www.maruzen.co.jp/shopinfo/best2008/vote-fiction_1.shtml


486044356X.jpg 以前紹介しました書籍
「悲しき横綱の生涯 大碇紋太郎伝 」
西まさる著(新葉館出版刊) が、
丸善2008あなたのベスト本・文芸部門で
見事に第1位に輝きました。
おめでとうございます。


*西さん、よろしければコメントお願いします。

PageTop

井上好平&荒木優子 生きることの「書展」

arakikouhei2.jpg
歯科医師と陶芸作家の初の書展。大野町きょう屋にて。1月7日から12日まで。
井上好平さんは現在ガンと闘ってます。
しかし、落ち込まず、負けずに楽しく生きようとしている彼には感心させられます。
荒木優子さんは陶芸とは全く違う作風で彼女の才能には驚かされます。
二人の思いが書にこもっています。
ぜひ足を運んでみては。
arakikouhei.jpg

kohei.jpg araki.jpg

PageTop

半田乙川の「お宝展」を見に行こう!

08-12-1.jpg

1902-2.jpg
はんだ歴史研究会さんの恒例かつ好評の展示会です。
今年は下記のお宝を展示します。
今週末、ぜひお誘い合わせのお越しをお待ちしてます。

●千両箱コーナー 千両箱がずらり!葵の御紋入りの貴重品も。
●中島飛行機半田製作所の秘蔵の品、図面、所歌のレコード、国策映画も。
●豪商発行の為替手形=昔は貨幣より信用があった!
●明治、大正期の半田地方が分かる絵ハガキや地図がずらり!
●化粧廻しの実物も展示!

okkawakominkanmap.jpg
地図をクリックすると大きくなります。

PageTop

月刊「大野町ばかり行かない」創刊

創刊の御挨拶
別に地元のネタがない訳じゃない。
地元が嫌になった訳でもない。
たまには地元情報以外も書いてみたい。
別にここで書かなくてもいいのだが、
ここだからこそ「それ以外」が書ける。
月に一度(たぶん)の筆者のわがまま、
お付き合いください。

「いつでも昔に会える今」
私が中学生の時、親にねだってラジオ付きカセット(通称ラジカセ)を買ってもらう。
表向きは英会話の勉強のためだが、そんなの嘘。
深夜放送聴いたり、FM放送から流れる曲を録音ばかりしていた。
小学時代、テレビが茶の間の主役。そこから流れる音楽は日本の歌謡曲が殆ど。
だからなのかわからないが、ラジカセから流れる洋曲が新鮮に聴こえる。
特に初めてそこから耳にした洋曲。忘れもしないあの曲。
もう一度聴きたいのだが、なかなか聴けない。
そう思って幾年月。
今やネットの時代に。
なんと、youtubeで、いつでも簡単に聴けるではないか!
その曲とは、アルバード・ハモンドの「カリフォルニアの青い空」



この曲の動画、いくつかあるなかで、あえてこれを選びました。
完全な口パク。いもしないバックコーラスが流れる。弦が弾かれていないギターのアップ。
いいじゃないですか。昔らしくて。
私のマイ名曲の一つです。
(了)

PageTop

大野札

IMG_0601.jpg
大野札とは、明治初期に流通した為替手形のことです。
当時、江戸の貨幣の信用がなくなり、商売するときはこの大野札で行っていました。
札の表の下に書かれた5名は、当時の大野の豪商の連名です。
裏書には色んな商店の印鑑が押されています。
当時存在した商店・取引の流れがわかり、大変興味深いです。
写真は、はんだ郷土史研究会さんのわが家のお宝展で撮影させて頂いた物です。



uragaki1 uragaki22.jpg

uragaki33.jpg uragaki4.jpg

uragaki5.jpg


PageTop

醗化水(はっかすい)

hakkasui.jpg

醗化水(はっかすい)?
御存知の方はまずいらっしゃらないと思います。
辞書を引いてもネットで検索しても出てきません。
私も高橋さんに聞くまで全く知りませんでした。
明治時代の大野の豪商・平野助三郎が開発販売していました。
ソルビットのような添加剤のようなものだそうです。お酒に入れて飲むものだそうです。
お酒に醗化水を添加すると普通の酒と比べ甘くなるという事で、当時の助三郎のお店を「あめや」さんと呼んだそうです。
下の写真は明治21年当時の醗化水の広告文です。

hakkasui2.jpg


PageTop
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。