鴨長明がその句を詠んだ年
「生魚の御あへもきよし酒もよし大野のゆあみ日数かさねむ」〜新鮮な魚料理もおいしいし、お酒もおいしい。大野の汐湯治に来てついつい長期間滞在してしまった〜
1162年の句なら鴨長明7歳。そんな歳の子どもがお酒を飲んで和歌を詠むんでしょうか?
よしんば、7歳の子供が大人の気持ちになってあの句を作り上げたと仮定しても、当時全く歌人として名を馳せていない子供の句をその土地の人がありがたく頂戴するだろうか。
鴨長明の生没は、1155年(久寿2年) - 1216年7月26日(建保4年閏6月10日)。1153年生まれの説もありますが、それでも9歳。
「大野町史」の歴史研究はすばらしいものがありますが、本当に年が正しいのだろうか?
もう一度世界最古の看板の写真を見てみる。「大正12年より712年前」
計算してみる。大正12年は1923年だから、1923-712=1211。
あれっ?1162年じゃない。
1211年。承元5年か建暦元年。鴨長明56歳となる。
また、下の絵図(「風流漫筆知多めぐ里」より)には、あの塔の反対側が描かれていて、そこには、昭和9年から723年前とあります。これも1211年。建暦2年(1212年)ともありますが、ほぼ一致。

また、ある人に興味深い資料を見せてもらいました。
左は昭和11年、愛知県知多郡大野青海山観光協会発行の「大野町附近名所古跡案内」です。
二つ目のところを見て下さい。
世界最古海水浴場
(大野町洲岬にあり)
創設は約一千年前と伝う
後鳥羽上皇和歌所寄人 鴨長明は兼ねて京都に於いて大野海水浴の効験卓絶なる事を伝聞し今を去る726年順徳天皇御宇伊勢大廟へ参拝の途路当浜へ光来長く滞在し入浴の記念に左の一首を残し置きたり
と書かれています。
ここでは「昭和11年(1936年)から726年前」といってるから、1210年。承元4年。鴨長明55歳。
この頃は、鴨長明の晩年であり、歌人として充分著名な存在になっていたから、当時の人が鴨長明に頼んで大野の句を詠んでもらっても不思議ではないですね。
どうやら、この頃の方が正しくて、1162年説は、どこかで「元号○○年から○○年前」という部分で年がずれたしまったから起きたのではないのでしょうか。
歴史を調べると年号と年齢が一致しないことはよくあります。
とりあえず、1162年説の呪縛は解けたのでは・・・。
(引き続き)
鴨長明と大野の関わり合い
さらに調べていくうちに、鴨長明と大野の関わり合いがあることがわかりました。

写真は常滑市榎戸の海岸近くにある「鴨都波(かもつば)神社」です。
当時、大野庄の一部だった榎戸の海岸付近の新田開拓を鴨氏族がまかされていました。
その子孫が現在では斉田氏・吉田氏となり、今でも当地の海岸に分身を祀っていて、その碑もあります。
鴨長明は、この鴨氏(親戚)を頼り、この地に来て汐湯治を楽しみ、この和歌を詠んだと伝えられています。

(つづく)
「生魚の御あへもきよし酒もよし大野のゆあみ日数かさねむ」〜新鮮な魚料理もおいしいし、お酒もおいしい。大野の汐湯治に来てついつい長期間滞在してしまった〜
1162年の句なら鴨長明7歳。そんな歳の子どもがお酒を飲んで和歌を詠むんでしょうか?
よしんば、7歳の子供が大人の気持ちになってあの句を作り上げたと仮定しても、当時全く歌人として名を馳せていない子供の句をその土地の人がありがたく頂戴するだろうか。
鴨長明の生没は、1155年(久寿2年) - 1216年7月26日(建保4年閏6月10日)。1153年生まれの説もありますが、それでも9歳。
「大野町史」の歴史研究はすばらしいものがありますが、本当に年が正しいのだろうか?もう一度世界最古の看板の写真を見てみる。「大正12年より712年前」
計算してみる。大正12年は1923年だから、1923-712=1211。
あれっ?1162年じゃない。
1211年。承元5年か建暦元年。鴨長明56歳となる。
また、下の絵図(「風流漫筆知多めぐ里」より)には、あの塔の反対側が描かれていて、そこには、昭和9年から723年前とあります。これも1211年。建暦2年(1212年)ともありますが、ほぼ一致。

また、ある人に興味深い資料を見せてもらいました。左は昭和11年、愛知県知多郡大野青海山観光協会発行の「大野町附近名所古跡案内」です。
二つ目のところを見て下さい。
世界最古海水浴場
(大野町洲岬にあり)
創設は約一千年前と伝う
後鳥羽上皇和歌所寄人 鴨長明は兼ねて京都に於いて大野海水浴の効験卓絶なる事を伝聞し今を去る726年順徳天皇御宇伊勢大廟へ参拝の途路当浜へ光来長く滞在し入浴の記念に左の一首を残し置きたり
と書かれています。
ここでは「昭和11年(1936年)から726年前」といってるから、1210年。承元4年。鴨長明55歳。
この頃は、鴨長明の晩年であり、歌人として充分著名な存在になっていたから、当時の人が鴨長明に頼んで大野の句を詠んでもらっても不思議ではないですね。
どうやら、この頃の方が正しくて、1162年説は、どこかで「元号○○年から○○年前」という部分で年がずれたしまったから起きたのではないのでしょうか。
歴史を調べると年号と年齢が一致しないことはよくあります。
とりあえず、1162年説の呪縛は解けたのでは・・・。
(引き続き)
鴨長明と大野の関わり合い
さらに調べていくうちに、鴨長明と大野の関わり合いがあることがわかりました。

写真は常滑市榎戸の海岸近くにある「鴨都波(かもつば)神社」です。
当時、大野庄の一部だった榎戸の海岸付近の新田開拓を鴨氏族がまかされていました。
その子孫が現在では斉田氏・吉田氏となり、今でも当地の海岸に分身を祀っていて、その碑もあります。
鴨長明は、この鴨氏(親戚)を頼り、この地に来て汐湯治を楽しみ、この和歌を詠んだと伝えられています。
(つづく)





















