歴史とロマンの町 大野町へ行こう!

セントレアのちょっと北「愛知県常滑市大野町」のまちおこしブログ

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足病除のわらぐつ弘法大師・光明院

光明院

大野町には光明寺という寺が別にあり、光明院は、そことよくまちがわれます。
天正年間に知多郡岡田村から、現在の地に移転し、佐治家の祈願寺となりました。
光明院のわらぐつ弘法大師は、足病除大師として信仰されています。

光明院:本尊 大日如来/開基 佐治駿河守為次/創立 天正9年(1581)/開山 秀山法印/真言宗醍醐派/常滑市大野町9-68

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屋形船気分が味わえる食事処・おかめ寿司

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店は矢田川の川岸にあり、窓を開けると屋形船気分が味わえます。
献立は、寿司・和定食・丼物・仕出弁当など豊富。
特に、特製日替り弁当等のランチタイムメニューは、美味しい上にお値打ちで人気です。
又、ちらし寿司もお勧めです。出前・各種宴会・慶事・仏事承ります。

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(住)大野町6-7(電)0569-42-0564 FD 0120-42-0564(営)10:00~22:00(休)月曜(席)55席(駐)7台
(料金)幕の内弁当580円 中寿司1600円 寿司定食1100円 おかめ弁当松2000円

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みんなのもう一つの家「はっぴいひろば」

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市民が支えるNPO組織のお店。お年寄りも大人も子供も集う楽しいたまり場です。
喫茶食事・手作品販売(手芸品・お菓子・陶磁器・農作物等)・小さな美術館・生きがいクラブ(もめんや皮革工芸・料理・大正琴等)いろいろやってます。気軽にお立ち寄り下さい。

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(住)大野町7-65(電)0569-42-4801(営)9:30~16:30(休)土・日(但し、第2土曜は開館)(席)50席
(料金)はっぴい定食450円うどん・そば350円コーヒー・紅茶250円
*年会費2000円で食事が50円引きです。

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意外!和時計の生産地だった大野町

IMG_5283.jpg 天保の頃(1830~43)大野の市場出身の井上恵春が長崎で時計技術を学び、大野で時計細工を始めました。
縣時計・檜時計・黒壇製尺時計・枕時計・印籠時計等多くの和時計を作りました。
弟子も数多く竹内常吉、井上安蔵、小牧清七、竹内源兵衛、竹内仙吉、竹内和兵衛、竹内興吉、杉浦次郎吉、加藤音八、畑中一造等がいて、名古屋の時計師の先祖が大野の時計師のお弟子であったことは、大野に語り継がれてきた話です。京都、大阪からも注文があり、また時計の直し物は、名古屋でも修理できない物は大野へ送られたといいます。
明治維新になって、外国製の時計が続々輸入されるようになり、和時計は衰退の一途をたどりますが、日本に来た外国人が、大野時計の精巧さに驚き、買い集めて骨董品として逆に輸出されました。
後日談ですが、井上恵春の子孫が、なんと知り合いのきょう屋さんち!「蔵の中に和時計残ってない?きょう屋で個展やろうよ」「残念だけど一つも残ってないの」ガクッ!

写真は、古今散策の時、ギャラリー善八さんに展示された「檜(やぐら)時計」です。

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未来のNHK大河ドラマ?「佐治与九郎覚え書」

大野を舞台にした時代小説「佐治与九郎覚え書」(井上靖著)の存在もその大まかなあらすじも知っていた。しかし、その本の入手は、極めて困難を要した。
どこの本屋にも売っていない。出版社に問い合わせたら絶版とのこと。何件か古本屋を回ったが見当たらない。ネットで検索しても、短編集の中の一つらしく、その題名はヒットしない。
ええい!こうなったら、遠いけど東京神田の古本街に行って探しまくろうと悲壮な決意をした頃、ある老人に「ああ、わし、その文庫本もっとる。」「えっ!貸してもらえませんか?」「皆に読んでもらおうと思って、大野コミュニティの事務局に置いてある。」
なんと捜し求めていたものは、目と鼻の先にあった。
さっそく、了解を得て、事務局の書棚の中を捜す。ない。いくら捜しても見当たらない。誰かが借りていったのだろうか?あきらめて立ち上がった瞬間、書棚の上に埃のかぶった一冊の文庫本が目にはいった。あった!とうとう見つかった!
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おそらく、誰も読んでないだろう。いや、ここにあること自体知らないだろう。自分は老人の「皆に読んでもらいたい」という志を受け継ぐべく、このブログに「佐治与九郎覚え書」の全文を記そうと思う。
大野の小大名「佐治与九郎」に嫁いだ、お市の方の娘「お江」。その後、色んな不幸を乗り越え、秀忠の妻・家光の母になるという話。
今年のNHK大河ドラマ「風林火山」の原作者はこの「佐治与九郎覚え書」を書いた井上靖。
いつか大野町が大河ドラマの舞台に…なんて淡い夢も持ちつつ。

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「佐治与九郎覚え書」1

oonojo0.jpg 知多半島の大野城主佐治与九郎一成が、当時安土城にあって秀吉の庇護のもとに成人しつつあった、浅井長政の遺子である三人の娘たちの中の、一番末の小督(おごうと読む、以下は「小江」と書きます)を娶(めと)ったのは天正十四年のことである。この話は春に始まり実際に輿入れが行われたのは十一月の終りであった。与九郎は二十二歳、小江は十四歳、二人は婚礼の日まで一度も顔を合わせたことはなかった。
与九郎の母は織田信長の妹であり、小江の母もまた信長の妹であったので、二人は従兄妹関係にあるわけだったが、それぞれ幼い頃からきびしい運命の転変に揺すぶられ、容易ならぬ歳月を過去に持っていたので、お互いの存在など殆ど知っていなかった。それでも与九郎の方は安土城に自分の従妹にあたる三人の女性がいることは何となく知っていた。が、小江の方は与九郎などという名を聞いたこともなければ、その居城である大野という城がどこにあるかも全然知らなかった。
与九郎の父八郎信方は信長に随って天正二年に長嶋の役に出陣して討死していた。父の死後、与九郎は親族の者たちに援けられて、家をつぎ、幼少の頃は織田信雄のもとに人質に取られたりしながらも、隣接する諸勢力の間にあってよく父祖の地を全うし、現在家康、信雄の陣営に属して、その一方の武将としとて大野城六万石を領してる。小江の方は生れた年の天正元年に父長政を小谷城に失い、天正十一年には母お市の方と義父柴田勝家を北の庄に失っている。
この結婚には二人にとっては叔父にあたる織田信雄が仲に立っていた。与九郎一成は、小江の話が出た時、自分以上の不幸な過去を持って来た女を自分の妻に迎えることはいいと思った。會ては近江の豪族として鳴らした浅井の娘ではあるし、それに母方の織田の血もはいっており、家こそ潰れているが、まずこの時代では、一、二といっていい名門の出である。それに三年前に北の庄の城で勝家に殉じて自刃した母お市の方は、一世に知られた美貌の女性である。その娘であるから、恐らく小江もまたその麗質を受けついでいるであろうと思った。
輿入の日には、大野の城下には積ると思われぬ細かい雪が舞っていた。(つづく)

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「佐治与九郎覚え書」2

輿入の一行は雪の中を城下を突っ切って、城の方へゆっくりと進んで来た。城は海に迫っているひどく高低のある丘陵の上にあった。東西四町、南北一町、総廓九十二町一反、小さい丘全体が城廓になっている。本丸は丘陵の南の端にあり、その本丸の更に南に小さい櫓があった。そして本丸と櫓とを幅九間程の空濠が取り巻き、その外部に腰曲輪があり、更にまたその外部を深さ十八間程の谷が取り巻いていた。
行列は石畳の坂道を上って行き、中腹にある城門のところで停って、そこに輿を置いた。城門のわきには門火が焚かれ、花嫁を出迎える多勢の女房たちが腰をかがめて控えていた。輿入の格式にははまっていなかったが、与九郎はそこまで小江を出迎えた。
与九郎は輿から降りた背の低いずんぐりした花嫁を見て、小江が期待に反して少しも美貌でなく、平凡な顔立ちの娘であることを知った。下ぶくれの顔は愛らしいと言えば愛らしいと言えないこともなかったが、城下の町人の娘などにいくらでもある顔だった。
このことは与九郎ばかりでなく、その場に居た者たちの誰もが同様に感じたことだった。
ogou.jpg 人々は同じように白小袖を着た与九郎と小江とを、漸く暮れようとしている薄明りの中に並べて見て、自分たちの若い城主の室となる女性に軽い失望を感じた。どう見ても与九郎の方が引き立って見えた。与九郎は顔立ちも整っており、父譲りの精悍な凛々しいものを、その長身の躰につけていた。
「お疲れだったことであろう」
与九郎が言うと、
「疲れました。ずいぶん遠いんですもの」
小江は言って、何となく笑顔を見せた。そんなところは素直な感じだったが、笑うと、口が大きく、唇の厚いことが判った。
小江は最初侍女房に手を取られて歩き出したが、歩きにくいのか途中で相手から手を離すと、先に立って、多少手を振るような恰好でとことこと石畳を上って行った。(つづく)

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「佐治与九郎覚え書」3

与九郎と小江の夫婦仲は睦じかった。与九郎は小江が美人でないことには少しの不満も感じなかった。小江の神経質なところなどみじんもないおおどかな性格が好きだった。小江は一城の主の室であるといったようなつんとしたところはなく、可笑しいことがあれば場所を構わず待女たちと一緒に声を出して笑った。声は美しかった。城は小さく、生活も贅沢なことは許されなかったが、小江はいっこうに不満に思っている風には見えなかった。
小江は与九郎のところへ嫁いで来てから一度も城を出たがらなかった。小江のすぐ上の姉のお初は溝口城主京極高次の許に嫁いでおり、長姉の茶々はずっと安土城に留まっていたが、別に小江は安土にも帰りたがらなかったし、二人の姉たちにも会いたがらなかった。いかにも、現在の境遇に満足しているという様子であった。
小江が嫁いで三年目の天正十六年の春に、長姉の茶々は秀吉の側室に上った。この茶々の噂を耳にしても、小江は別に心を動かされる風だもなかった。姉との身分が隔たってしまったとも、また反対に、いかに権力者ではあれ、自分たち一門にとっては仇敵である秀吉のところへ茶々が側室として上ったということに対しても、格別特殊な感慨は持たないようであった。
与九郎はこうした若い妻に愛情を持っていた。saji2.jpg
いかなる立場にあっても、自分は自分だとして、自分にやって来る運命に従順で、いささかの不平や不満を持たないということは、やはり育ちから来るものあろうかと思った。小江は嫁いでから二年の間に二人の女児を生んだ。上の姫にはおきた、下の姫にはおぬいと名附けた。おぬいの方は生れながらの盲女であった。
茶々が側室に上った噂を聞いてから一年足らずして、この大野城の若い夫婦に全く思いがけない運命がやって来た。それは秀吉からの使者が来て、茶々が病気になり、病状捗々しくない故、小江に茶々の病気見舞に来るようにという秀吉の意を伝えたことだった。この使者から秀吉の伝言を聞いた時、与九郎は顔色を変えた。秀吉の命令通り、小江を茶々の許に差し出せば小江は再び大野城へ戻って来ることがないのではないかと思った。使者が帰ると、
「余と相聟(あいむこ)が不足か」
与九郎は呻くように言った。(つづく)



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「佐治与九郎覚え書」4

hideyosi.jpg「余と相聟(あいむこ)が不足か」
与九郎は呻くように言った。茶々と小江が姉妹なので、秀吉と与九郎は謂わば義兄弟の関係にあるわけであった。そんなことから秀吉は自分から小江を取り上げる腹ではないかと与九郎は思った。
それにもう一つ、与九郎には気になっていることがあった。それは天正十二年に家康、信雄の連合軍が秀吉と小牧で闘った時のことである。秀吉は佐屋川の舟を押さえ、家康の三河へ引き上げる退路を遮断した。ために家康は窮地に陥ったが、この時家康のために船を出して、その急場を救ってやったのは与九郎であった。この時の与九郎の措置に対して、秀吉がいい感情を持っていよう筈はなかった。秀吉が天下の権力者にのし上っている現在、何らかの形で、この報復はあるかも知れなかったし、またあっても不思議はなかった。
与九郎はその夜、小江に秀吉からの使者の趣を伝えて、二日後に茶々の居る淀城へ赴くように命じた。すると、小江は、
「それは困ります」
と、いかにも困惑した表情で言った。十日先に二人の姫のために桃の節句を控えており、その日は侍女たちと向い山で野宴を開くことになっている。それが済んでからならいいが、それがすむまでは行くわけには行かない。これが小江の言分だった。与九郎が何分天下の権力者である秀吉の命令であるから、それまでの猶予は難しかろうと言うと、
「関白様の御命令でも、それくらいは待って戴けましょう」
小江は言った。秀吉の命令より、自分の娘のための桃の節句の方を大切に考えている、怖いもの知らずの室の言葉が、与九郎の耳には快く響いた。
与九郎がそうした我儘の許されぬことを説明すると、小江は暫く考えていたが、
「では、参りましょう」
と、こんどは素直に言った。与九郎はそんな小江に、
「こんどの上洛は単に淀殿のお見舞とのみは受け取れぬ、何か裏に他の意味があるかと思う」
と言うと、初めてそのことに気づいたとでも言った風に、小江ははっと顔を上げると、
「お城替えでございましょうか」
と言った。
「お城替え!?」
「もっと大きいお城へ替えるようにというお達しがあるのではございませぬか」
心からそう思っている小江の表情であった。
「そうかも知れぬ」
与九郎はそう言った。人を疑うという気持ちを全く持ち合わせていない若い妻に対して、他のいかなる言葉も口から出すことはできなかった。(つづく)

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二所参り。精霊流しをしたあとに参る「十王堂」

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塗籠造ので重層、辻堂としては最上級の立派な堂です。しかも水盤舎まで付属しています。
十王堂には閻魔王のほか、人の死後に生前の罪業を調べる十人の冥府の王がまつられています。格天井81面の絵は名古屋の有名な絵師(渡辺清、野村玉渓、森高雅等)の手によるもので、十王堂の額は名古屋の黄辟宗東輪寺無底大亀和尚の書です。
8月16日夜矢田川大野橋で精霊流しをしたあと、この十王堂にお参りするという二所参りの風習があります。
(常滑市大野町8-60)
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「火防(ひぶせ)大師」で親しまれる「宝蔵寺」

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防火と雷除けに霊験あらたかな「火防(ひぶせ)大師」として親しまれています。
愛知県では数少ない緑泥片岩の板碑があり。手水のデザインがモダンでおもしろいです。

龍王山宝蔵寺:知多四国68番札所/真言宗智山派/千手観世音菩薩/常滑市大野町3-30/0569-42-0588/

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「佐治与九郎覚え書」5

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二日間に小江の旅立ちの支度は調えられた。与九郎は小江を茶々の病気見舞にやるというより、秀吉のもとに送り届けるといった気持ちの方が強かった。与九郎は日頃小江に仕えていた侍女たちを、あるいは再び戻って来ないかも知れない自分の室に附けてやることにした。
小江の旅立ちの支度が調えられている間、与九郎の気持は複雑だった。権力者に対する反抗と諦めの気持が交互に若い武将の心を襲っていた。そしていよいよ小江が出発する日の朝、烈しい怒りが与九郎を襲った。小江はすっかり旅支度を調えて、挨拶にやって来た時、与九郎は、
「仔細あって生かしておくわけには行かぬ」
そう言うや否や、彼は槍を取り上げ、穂先を小江に向けて構えた。どうしても小江を秀吉の許に差し出すわけには行かぬといった気持だった。
すると、小江はその場に坐ったまま、眼を軽く閉じ、
「どうぞ」
と言った。いつもの澄んだ声だった。
「突くぞ」
「どうぞ」
それから小江は眼をつむったまま、いかにも可笑しそうに低い笑声を口から洩らした。
「何が可笑しい!怖くはないのか」
与九郎は訊いた。すると、その時、小江の口が動いた。
「おまじないでは三遍突くのでございましょう」
与九郎は自分の耳を疑った。
「なんと?」
「おまじないでは」
「まじないと思っているのか」
与九郎は瞬間躰の緊張の解けて行くのを感じた。いっきに毒気を抜かれてしまった気持だった。小江は自分のために、夫が旅の道中の無事を祈るまじないをしてくれるものと許り思っている風であった。
与九郎は血の気を失った顔で、三度槍を突き出し、三度とも小江の胸許一尺程のところで停めると、
「よし、これで何事もなかろう」
と、自分でもそれと判る乾いた声で言った。
小江は目を開けると、二年前の婚礼の時、城門の横で輿から降りた時笑ったように笑った。その邪気のない笑顔は与九郎にはやはり美しく見えた。与九郎はこの時ほど小江に夫としての深い愛情を感じたことはなかった。そして今こそ小江を自分の手から放してやろうと思った。彼女の持っている運命がどのようなものか判らなかったが、ともかくその流れの中へ放してやろうと思った。
小江はその日、大野城を発った。十幾つかの輿が並び、その前後を騎馬の集団が固めていた。婚礼でもない、かと言って普通の旅立ちでもない異様な行装の隊列は、丘陵の城を出て、足場の悪い石畳の坂を、早春の弱い陽を浴びて降って行った。(つづく)

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「佐治与九郎覚え書」6

与九郎一成の危惧は間もなく現実となって現れた。
秀吉からの使者が来たのは、小江が大野城を発って行ってから二十日程してからだった。小江が淀城で発病し、当分帰れないから承知して貰いたい。こういう使者の口上だった。
口調は鄭重であったが、一方的な通告であった。それから更に十日程して小江と一緒に行った侍女たちだけが帰されて来た。侍女たちは淀城へはいってからの小江については何も知っていなかった。彼女たちは城へはいると同時に小江とは離されてしまい、そこで退屈で不安な何日かを過し、それでも最後に一通り都を見学させて貰って帰されて来たのであった。
与九郎はかねて覚悟していたことではあったが、秀吉に対して烈しい怒りを覚えた。併し、どうすることもできなかった。織田信雄にも使者を立てて相談したが、そのままにして成行を見ている以外仕方がないだろうということであった。
odanobukatu.jpg明けて天正十八年に、小江を取り上げられた佐治与九郎には更に決定的な悲運が見舞って来た。それは彼の主である織田信雄が奥州へ国替えさせらると同時に、与九郎はその居城大野城を召し上げられることになったのであった。多年秀吉とよくなかった信雄も思いがけない秀吉の報復を受けたわけであったが、それと一緒に与九郎の方も片附けられててしまった恰好だった。与九郎は城を出なければならなかった。死を賜らないことがせめてものめっけものと言わねばならなかった。延文年間以来代々地方の豪族として、知多半島一帯の地に勢力を張っていた佐治氏は、ここに滅亡の運命に立ち到ったのであった。
大野城を失った佐治与九郎一成は、浪々の身を一時血縁の関係にある師崎の千賀家に寄せたが、おきた、おぬいの二人の娘をそこへ預けて、自分は伊勢の安野津城主の織田信包(のぶかね)を頼った。信包は与九郎の伯父に当る人物であった。そしてそこで与九郎は無役のままで、五千石の棄扶持を与えられた。(つづく)


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「佐治与九郎覚え書」7

伊勢へ行ってからの与九郎は、彼を知っている者には全く別人としか見えないような風貌に変わっていた。併し、そうした与九郎を知る者も極く僅かしかなかった。与九郎は小さい侍屋敷に篭ったまま一切どこへも出ず、人に姿を見られることも極力避けていた。ただ一年に一回だけ庇護者である。織田信包と会った。それは織田一門の供養の行われる日で、その日だけは城内に伺候し、信包と会って短い言葉を交し、それから城下の外れにある寺へ向った。
この日信包と与九郎が会う席に居合せた者だけが与九郎の変わった風貌に接することができた。大野城主であった頃の精悍な表情は全くなくなっていた。年齢のはっきり判らぬ憂鬱そうな面貌を持った長身の武士は、信包に対してだけ低く口を開いたが、何を言っているのか、その言葉が殆んど聞き取れなかった。信包以外の誰かが話しかけても、与九郎は決して返事をしなかった。それが唯一の己が運命への反抗であるかのように、彼は執拗に無言を守った。そうした与九郎の態度は、誰にもいい印象を与えなかった。人々は妻と城とを奪われた哀れな男として、与九郎を見た。
与九郎が城を失ってから三年目の文禄元年の春に、世に丹波少将と呼ばれていた羽柴秀勝と小江との婚儀が発表された。秀勝は信長の第四子で、秀吉の養子であったので、この婚儀の噂は世間に賑やかに流布された。秀勝は二十六歳で、小江は二十歳であった。
世間ではこの一時期、佐治与九郎のことを思い出したが、与九郎が信包の庇護のもとに生きているということを知っている者は極く一部の者だけであった。多くの者は誰が言い出したものか判らなかったが、大野城没落と共に与九郎が自刃して相果てたという噂を信じていた。
こうしたことがあってからも間もなく、この年の秋に織田信包は伊勢の安野津城から丹波の柏原城へと移封を命じられた。この信包と一緒に、与九郎一成もまた柏原へ移って行った。(つづく)

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「佐治与九郎覚え書」8

柏原へ移ると、与九郎は剃髪することを信包に申し出た。信包は一応与九郎の決心を翻させようとしたが、
「拙者は大野城を失った時、自刃すべきでであったが、多少思うところあって今日まで生き延びて来ました。いまはその思うところも齟齬し、いつ相果てても惜しくはない生命であります。併し、いま自刃したら御迷惑がこのお家へ及ぶと思いますので、このまま生きて参りましょう。剃髪の儀だけはお聞き届け戴きたい」
与九郎は言った。
それから数日してから、与九郎は髪を落し、名を巨哉と改めた。この時与九郎は二十八歳であった。
与九郎が大野城を奪われた時、自刃しなかったのは、小江にもう一度会えるかも知れないという気持があったからである。小江に対して恋々たる情を持っていたというより、小江の身の上が案じられ、もう一度会わないことには安心して死んで行けない気持であった。与九郎にそうしたことを思わせるものを小江は持っていたのである。それが、小江と秀勝の婚儀という思いがけない事件で終止符を打たれ、与九郎は自分が恥を忍んでなんのために生きていたのか判らなくなったのであった。
剃髪して巨哉になってからの与九郎は、人を避けることと、誰とも言葉を交わさないことは前と同じであったが、その表情は見違えるほど穏やかになった。
そてから二年してもう一度佐治与九郎のことが世間に話題になったことがあった。それは小江の夫である秀勝が朝鮮に出征し、朝鮮で陣歿したことが発表された時で、文禄三年の春のことであった。この時は与九郎の恨みがついに秀勝を死に追いやったというような蔭口がきかれ、小江の二度目の結婚が持った不幸は、当然約束されていたことのように噂された。小江は秀勝との間に一女を儲けていた。(つづき)

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隣接する田中寺・光明寺

田中寺 田中寺説明

光明寺 光明寺説明

大野小学校の西隣に隣接する立派な二つの寺があります。中世の時代、両寺とも近隣からこの大野の地に移転してきました。それだけ、大野は栄えていたということでしょうか。

小倉山田中寺:真宗大谷派/本尊阿弥陀如来/大野町10-67
小林山光明寺:真言宗大谷派/本尊阿弥陀如来/大野町10-53

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家康の人生最大の危機を救った!?「東龍寺」

東龍寺

本能寺の変の時に、堺にいた徳川家康が三河まで逃れるときに、家康人生最大の危機と後世に記された、敵中突破のいわゆる「伊賀越え」を行い、白子の浜から伊勢湾を渡り、辿り着きかくまってもらった先が、かつてから関係のあった大野東龍寺という説と、常滑の正住院という説と二つの説があります。どちらでしょうね。
また、第二次世界大戦中に供出された梵鐘にかわって、戦争の歴史の証人として、焼き物の梵鐘があります。

巌松山東龍寺:浄土宗西山深草派/阿弥陀如来/大野町8-68/

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「佐治与九郎覚え書」9

小江が秀吉の養女となって、家康の長子である秀忠と伏見城に於て婚礼の式を挙げたのは、その翌年の文禄四年の九月のことである。小江は二十三歳、秀忠は十七歳であった。この時は婚儀の盛大さがやかましく噂され、その派手な噂の陰に匿れて、もはや佐治与九郎のことを思い出す者はなかった。与九郎の名は口に出されても、これはもはやこの世に居ない人間としてであった。与九郎は誰からも故人として取り扱われていたし、実際にまたそう思われていた。
丹波の小さい城下町に、彼が納衣を纏って生きていようとは、だれも想像だにしないことであった。
与九郎に嫁ぎ、秀勝に嫁ぎ、それぞれ不幸というべき結婚をしながら、次第に女としてのより大きい幸運を掴んで行く小江が、人々には異様な眩しさで見えた。
小江が、秀忠との間に一子を挙げたのは慶長九年七月のことである。秀吉薧(こう)じて七年経っており、家康は将軍職にあった。いつか時代はすっかり変わっていた。この時もまた小江のことが世間で噂された。
小江という女が、次々に夫を替えて、次々に違った胤の子供を産んで行くことが、多少揶揄的に取沙汰されたのであった。
併し、小江は今や将軍家康の嫡子秀忠の正室であり、江戸西城に於けるこんどの出産は大きい祝福を持って迎えられた。家康も悦んだし、諸国の武将たちからの賀使も毎日のように詰めかけた。(つづく)

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東龍寺塔頭旧七ヵ寺の一つ「甘露院」

甘露院
前出の東龍寺の塔頭旧七ヵ寺の一つ。東龍寺山内にあります。以前は、福用軒、徳用軒、感迎院、甘露院、宝池院、実相院、林斎院と七ヵ寺が存在していましたが、現在では甘露院の一寺を残すのみとなりました。

巌松山甘露院:浄土宗西山深草派/阿弥陀如来/大野町8-64

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「佐治与九郎覚え書」10

この小江の出産の噂は、江戸から遠く離れている丹波地方には一月ほど遅れて伝わった。
その日、巨哉こと佐治与九郎は所用あって柏原在へ出掛けて行ったが、柏原の城下の外れで、いずれも旅装束の十数名の騎馬の一団と出会った。
通行人たちは、その一団のために道を開いた。道はぬかるんでいた。与九郎は泥の飛沫をうけて、多少小癪に障る思いで路傍に立っていた。その時、与九郎の耳に、やはり傍に路をよけて立っている男の声がはいって来た。それによって、与九郎はいま自分の眼の前を過ぎて行く一団が、秀忠の室の男子出生を祝うために、この城からはるばる江戸へ出掛けて行く賀使の一行であることを知らされた。
与九郎はふらふらとその場に腰を下した。坐ってしまった時、自分でもどうしてそんなところへ坐り込んでしまったのか、はっきり判らなかった。
与九郎は多勢の通行人が怪訝そうに見返って行くのも構わず、虚ろな眼でそこに坐り込んでいた。その眼には、十三年前の自分の妻である。小江の、あまり美貌とは言えない、併し人を疑うことを知らないおおどかな顔が与九郎だけに見えていた。
与九郎にはもはや愛憎の観念はなかった。ただ、現在の秀忠の室である小江が、やはり昔のように自分に与えられている境遇に、たいして悦びもなくなく悲しみも感じずに坐っているのではないかという気がした。
そしてそんな彼女に、幸運というものが、今までもそうであったように、これからも、ゆっくりと着実な足取りでやって来るのではないかと思われた。
「徳川家は御安泰じゃ」
与九郎の口から、ふとそんな言葉が洩れた。皮肉でも自嘲でもなかった。若い頃の与九郎の声とは全く違った嗄れたものであった。小江の夫秀忠は将来将軍になるかも知れなかったし、こんど生まれた男児がそれに続いて将軍になるかも知れなかった。恐らくそのようなことも夢でなく、そのような幸運が小江を見舞って来るのではないかと思われた。
与九郎の予想通り、その後秀忠は二代将軍となり、小江の生んだ男児は三代将軍となった。
与九郎は寛永十一年九月26日七十歳で京都に歿しているが、どうして京都に住むようになったか、その間の消息は判っていない。「長徳院快岩巨哉居士」というのが彼の戒名である。また与九郎が師崎の千賀家に預けたおきた、おぬいのその後のことも判っていない。ただこの二人の娘たちが住んだ須佐村付近を「おきた脇」と呼ぶことはかなり後年まで続き、そこに聞母とは異なって不幸だった二人の娘が住んでいたことを物語っていた。(おわり)

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「佐治与九郎覚え書」考

井上靖「佐治与九郎覚え書」は、井上靖(1907-1991)の初期の作品です。
昭和32年、小説新潮に連載され、後に、天目山の雲(角川文庫)・真田軍記(旺文社文庫)・楼蘭(ロマンブックス)の三つの各文庫本(三つ共、絶版)の中に収録されました。
昭和38年1月18日にはTBS系「近鉄金曜劇場」というテレビ番組で、この作品は放送されました。
脚色は依田義賢。主演は平幹二朗、八千草薫。

この作品のストーリーの後半、与九郎の消息ははっきりしていませんでしたね。
なぜ、京都に移り住んだのか。
史実をたどると、与九郎を保護していた織田信包は、1590年小田原征伐時に敵の助命を秀吉に嘆願したため秀吉の怒りを買い、1594年伊勢津城を改易される。それに伴い、剃髪して老犬斎と号し、京都の慈雲院に暮らしました。が、その後、秀吉の側近となり、まず近江を与えられ、そして1598年には丹波柏原を与えられました。私の推測ですが、物語通りでなく、与九郎は丹波柏原には信包と帯同せず、そのまま、京都に滞在したのではないでしょうか。強制的に離縁させられた秀吉の家臣にはなりたくなかったのでは…。
1610年、与九郎は信長の娘・お振(彼女も再婚)と再婚、嫡男為成 を儲けている。
将軍の妻となった小江(おごう)は、小江与(おえよ)と改名。
与九郎の「与」をとって付けたのではと、推測するのは流石に考えすぎか…。
ただ、互いの一番至福の時は、大野城にいた2年間であることはまちがいないと思います。


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伊勢湾を一望できる「大野城」

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大野城(別名宮山城)は、青海山の山頂にあり、伊勢湾が一望できる景観が魅力です。
築城年代は定かではないが,室町時代には大野氏,一色氏,佐治氏が代々居城。中でも佐治氏は水軍の将として,伊勢湾の海上交通を支配する上で重要な位置を占めていて、佐治氏三代信方の正室は信長の妹お犬の方、四代与九郎一成は、信長の妹・お市の方の三女,小江の方を正室としているように,尾張の支配者がいかに佐治氏を重要視していたかが分かる。しかし,豊臣秀吉と徳川家康・織田信雄の仲が不和になると、一成が徳川・織田方に味方したため,一成は小江と強制的に離縁され、改易されてしまう。小江は,後に徳川秀忠に嫁ぎ,千姫,三代将軍家光を産んでいる。
大野城

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街の名物おじさん①~ギンマジョさん~

最近、話が堅いので、たまには柔らかい話をと思い、街の名物おじさんを紹介します。
今回は、常滑駅前のアクセサリー店「ギンマジョ」店主・中村慈男さん (西之口在住)です。
’ギンマジョさん’で通っています。
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口ひげを生やし、ループタイに、時としてカウボーイハットをかぶり闊歩するお洒落なおじさんです。
交流関係が広く、出会いと感謝をモットーに、話がおもしろくて、特に女性の心をわしづかみ(おばさん専門?)にします。
また、オーダーメイドのアクセサリーを販売している他に、なんと作家活動もしています。
お店には自分の書いたエッセイや小説も置いています。
一度お店に遊びに行ってみては。彼のおもしろい話は必聴です。

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ギンマジョ:常滑市鯉江本町5-168(常滑駅前Willセラ内)/0569-34-8816/営業時間11:00~19:00/

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街の名物おじさん②~樂游館(らくゆうくわん)の岡さん~

小倉町にある、昭和初期にできた名館「まつや別邸」を復活し、樂游館(らくゆうくわん)として一般に開放したのが'岡さん'です。
岡さん
(写真)まつや足袋のノベルティグッズの大足袋を履く「岡さん」

彼は豊橋のデザイナーさんで、外観が洋風・内部が和風の建築になっているこの建物の素晴しさに惚れ、所有者の「まつや足袋会社」さんからお借りし、手入れをし、去年2006年にオープンさせました。
ギャラリーやコンサートを催したり、多目的に利用してます。最近は、去年夏好評だったオーダーメイドの素敵な下駄も販売しています。

地元の名所を発掘した彼の功績は大きい。
やはりプロだけあり、彼の芸術センスは素晴しい。ぜひ、樂游館に行って、彼プロデュースの芸術作品に触れてみて下さい。
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左)樂游館(らくゆうくわん)
中)1/27にテレビ番組で紹介される。レポーターのマナカナちゃんに囲まれご機嫌。
右)コンサートで司会。

樂游館(らくゆうくわん):小倉町5-84/0569-44-2550月火定休/P有り 

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