歴史とロマンの町 大野町へ行こう!

セントレアのちょっと北「愛知県常滑市大野町」のまちおこしブログ

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「世界最古の大野海水浴場 」の話1

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「本当に世界最古?」を調べてみます。
上の写真は、2007年夏の大野海水浴場です。
「ようこそ世界最古の大野海水浴場においでくださいました」
とアナウンスが流されていました。
「へぇ~すごい。でも、本当に世界最古の海水浴場なの?」
と思う人もみえると思います。私もその一人です。
そこで、その疑問を調べてみようと思います。
少し話が長くなりそうなので、分けてお話しします。(つづく)

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「世界最古の大野海水浴場 」の話2

昔の大野海水浴場

「日本最古」ではない「世界最古」
「世界最古」なら、当然「日本最古」でもある筈ですよね。
しかし、全国で「日本最古」と名乗っている海水浴場はいくつもあります。
えっ?
私が知っているのは、神奈川県の「大磯海水浴場」さん、岡山県の「沙美海水浴場」さん、三重県の「二見浦海水浴場」さん。
(他にも「日本最古」と名乗っている海水浴場があれば教えて下さい)

いずれも明治時代にできた海水浴場で、某所が「日本最古」と名乗ったら、別の所が「いや此方のほうが古い」と後で名乗りだしたのが真相のようです。
欧米の影響を受け、海水浴の効能や観光効果があることを知った、時の先人達が海水浴施設の設立に尽力した時代だったんですね。

しかし、我が「大野海水浴場」は違います。
1162年(応保2年)鴨長明が大野に訪れ、「生魚の御あへもきよし酒もよし大野のゆあみ日数かさねむ」と詠んだことを根拠に、「日本最古」を飛び越え「世界最古」だと名乗っています。
家康が大野に海水浴(当時は汐湯治と呼んでいた)をしに訪れた文献や江戸時代の海水浴をしている絵図もあります。
だが、それだけでは「世界最古」の立証になりませんね。
しかし、それを立証しようとした男が昭和初期にいました。
(つづく)
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「世界最古の大野海水浴場 」の話3

「大野町史」の著者「佐野重造」氏
sanojozo.jpg大野海水浴場の歴史は、「大野町史」(昭和4年)に詳しく載っています。
この本の著者が「佐野重造」(明治20~昭和47)という人で、彼の郷土史研究は大いに評価されています。
まず、ここで、彼にスポットをあててみます。
明治44年に早稲田大学英文科を卒業後、東京で新聞記者をしていたが、大正6年、大野町で小川屋傘店を継ぐべく帰郷。
そして、提灯や傘を作るかたわら、俳句・漢詩や随筆・小説などの文学活動を行ない、いくつもの文学誌を発行しています。
「大野音頭」「大野節」の作詞も彼が手掛け、レコードに吹き込まれました。
帰郷後丹念に郷土の歴史も掘り起こし出版した「大野町史」は、その中の大野城主佐治氏の考証にひときわ光り、後に、井上靖の「佐治与九郎覚書」・永井路子の「乱紋」の資料にもなりました。

当然、大野海水浴場についても「大野町史」には詳しく載っています。
306ページ、「大野の海水浴が世界最古であると称するのは、右記の如く歴史的事実に根拠に置いて居るのである。」とあります。
(つづく)

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「世界最古の大野海水浴場 」の話4

「大野町史」に書かれている世界最古の論拠
saiko1.jpgここで大野町史306ページを抜粋します。
<大野の海水浴が世界最古であると称するのは、右記の如く歴史的事実に根拠に置いているのである。
設備の完全不完全ということは必ずしも歴史的意味を伴うものと限ってはいらぬ。
鴨長明が「生魚の御あへもきよし」の和歌を此の浦で詠じたのは昭和から遡って約765年前のことである。
摂津名所図絵第1巻住吉神社の條に6月14日社頭の群集住吉の海水へ浴し、百病平癒を祈願することを記しているが、之は560年前後の説である。
和泉名所図絵第1巻に堺寺地町旭蓮社の潮風呂の事を記しているが、之は建仁2年で、大野より20年程後である。しかも堺のは潮風呂であるし、大野のは自然の海水であることが其趣を異にしている。
西洋では英国が一番古いが、それでも18世紀始め(オサンの説)で、仏国之に次ぎ、1767年チペイに浴場を開き、1801年北海のノルデルネに開き、次に白耳義のオステンド・ブランベンダに開かれた。此の時代が最も盛んで、毎年2万以上と称せられていた。
次に和蘭1818年セウエンゲル、土奥州1844年アバチカ等続々海水浴場が開かれ、今日では内外ともに海に面する土地は凡て海水浴場として設備せらるるに至ったのである。
かくの如く見来る時は西洋で最も古いとせられている英国ですら250年位の歴史しかないとすると、大野は世界最古ということになるのである。(石井氏秘書)
唯単に以上の諸説から論断することはやや不備の点が少なくないように思われるが、兎に角之で大野の海水浴が随分古い歴史を有しているという証明には充分なり得る。>(大野町史より)

こう書かれています。
よく読むと、佐野重造は世界最古と断定まではしてません。
しかし、よく考えるてみると、太古の昔の人だって海で泳いでいただろうし、泳いだからそこが海水浴場だと必ずしも言えないし、そもそも、海水浴場の定義自体曖昧で、世界最古の証明自体不可能に近いと思います。
よって、他の所が史実を元に「こちらが世界最古だ」と名乗りでない限り、現時点では、大野が世界最古の海水浴場だと名乗って構わないと思います。
ところが、まだ話は終わっていません。
1162年(応保2年)鴨長明が大野に訪れ、「生魚の御あへもきよし酒もよし大野のゆあみ日数かさねむ」詠んだということ自体に疑問が…。
その年は、鴨長明は7歳頃で、そんな歳の子どもがお酒を飲んで和歌を詠むんでしょうか?
(つづく)

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「世界最古の大野海水浴場 」の話5と6

鴨長明がその句を詠んだ年
「生魚の御あへもきよし酒もよし大野のゆあみ日数かさねむ」~新鮮な魚料理もおいしいし、お酒もおいしい。大野の汐湯治に来てついつい長期間滞在してしまった~
1162年の句なら鴨長明7歳。そんな歳の子どもがお酒を飲んで和歌を詠むんでしょうか?
よしんば、7歳の子供が大人の気持ちになってあの句を作り上げたと仮定しても、当時全く歌人として名を馳せていない子供の句をその土地の人がありがたく頂戴するだろうか。
鴨長明の生没は、1155年(久寿2年) - 1216年7月26日(建保4年閏6月10日)。1153年生まれの説もありますが、それでも9歳。

saiko1.jpg「大野町史」の歴史研究はすばらしいものがありますが、本当に年が正しいのだろうか?

もう一度世界最古の看板の写真を見てみる。「大正12年より712年前」
計算してみる。大正12年は1923年だから、1923-712=1211。
あれっ?1162年じゃない。
1211年。承元5年か建暦元年。鴨長明56歳となる。

また、下の絵図(「風流漫筆知多めぐ里」より)には、あの塔の反対側が描かれていて、そこには、昭和9年から723年前とあります。これも1211年。建暦2年(1212年)ともありますが、ほぼ一致。
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saiko5.jpgまた、ある人に興味深い資料を見せてもらいました。

左は昭和11年、愛知県知多郡大野青海山観光協会発行の「大野町附近名所古跡案内」です。
二つ目のところを見て下さい。

世界最古海水浴場
(大野町洲岬にあり)
創設は約一千年前と伝う
後鳥羽上皇和歌所寄人 鴨長明は兼ねて京都に於いて大野海水浴の効験卓絶なる事を伝聞し今を去る726年順徳天皇御宇伊勢大廟へ参拝の途路当浜へ光来長く滞在し入浴の記念に左の一首を残し置きたり


と書かれています。
ここでは「昭和11年(1936年)から726年前」といってるから、1210年。承元4年。鴨長明55歳。

この頃は、鴨長明の晩年であり、歌人として充分著名な存在になっていたから、当時の人が鴨長明に頼んで大野の句を詠んでもらっても不思議ではないですね。
どうやら、この頃の方が正しくて、1162年説は、どこかで「元号○○年から○○年前」という部分で年がずれたしまったから起きたのではないのでしょうか。
歴史を調べると年号と年齢が一致しないことはよくあります。
とりあえず、1162年説の呪縛は解けたのでは・・・。

(引き続き)

鴨長明と大野の関わり合い 
さらに調べていくうちに、鴨長明と大野の関わり合いがあることがわかりました。
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写真は常滑市榎戸の海岸近くにある「鴨都波(かもつば)神社」です。
当時、大野庄の一部だった榎戸の海岸付近の新田開拓を鴨氏族がまかされていました。
その子孫が現在では斉田氏・吉田氏となり、今でも当地の海岸に分身を祀っていて、その碑もあります。
鴨長明は、この鴨氏(親戚)を頼り、この地に来て汐湯治を楽しみ、この和歌を詠んだと伝えられています。
鴨都波神社
(つづく)

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「世界最古の大野海水浴場 」の話7

「世界最古」は負の遺産?
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「世界最古?本当かよ。なんか、いかがわしいなあ」という声を聞き、地元の人ですら、「日本中に、日本最古と名乗ってる海水浴場はいっぱいあるってよ。鴨長明の句も本当かどうか。あまり大きな声で世界最古って言わん方がいいなあ」という始末。これでは、せっかくの地元の景勝地なのに、「世界最古」と名乗ることは負の遺産に思えます。
何とかそれを払拭できないか。そう思い、今回、微力ながらも「本当に世界最古?」を調べてみました。

そして、現時点で、調べてわかったことはここまでです。

今のところ、大野より古い「海水浴場」は確認できていませんが、正直、今後確認される可能性はないとは言えないでしょう。
しかし、大野がかなり古い歴史を有していることはまちがいなく、厳密に言うと
「世界最古と呼ばれる程の古い歴史を持つ海水浴場」といったところでしょうか?
今後、大野海水浴場に関する新たな歴史的事実や世界中の「現存する海水浴場の営業開始年」等、皆様の情報お待ちしています。

また、日本中にたくさんある「日本最古」の件ですが、決して「ナンバーワン」という意味でなく「そう名乗っていいほど古い歴史のある」という意味だと私は解釈します。
お互いが「最古」を否定しあうのはナンセンスであり、むしろ逆手にとり、「おらの海水浴場が日本最古だサミット」でも開いて、各々の海水浴場の歴史やいい所をPRしあえばいいのでは…?

大野海水浴場のいい所を言いますと、
・鴨長明や家康・秀忠など歴史上の人物が訪れた程の名勝地である。
・明治に内務省の後藤新平らが海水試験が行ない、分析の結果、化学的効果が著しいことが判明し、海内好箇の海水浴場であると賞賛を受けた。
・近くでウインドサーフィン等のマリンスポーツや釣が行なえる。
・名古屋に近い。セントレアも近い。
・夕日がとても綺麗。
・三年前にウミガメの産卵が確認された。等

地元の人は、「大野海水浴場」をもっと誇りにもっていいと思います。
今後、この観光資源を生かし、「世界最古」ならぬ「世界最高の海水浴場」と言われるような素晴しい観光地化を推進し、行楽客が増えることを願ってやみません。
(おわり)

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鴨長明が詠んだとされる大野の句を調べる1

「生魚の御あへもきよし酒もよし 大野のゆあみ日数かさねむ」 鴨長明

takahasi.jpg友人の高橋さんから連絡があった。
なんと、大野海水浴場が世界最古の根拠とされる、あの鴨長明が詠んだとされる句が載ってる文献がわかったというのだ。
その文献の名は 「海道記」

たまたま高橋さんが知り合いから手にいれた本
「親鸞聖人の歩かれた道」順正寺前住職 坂田正孝著
その中に下記のように書かれている。

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鎌倉時代以前、知多半島の中心は西海岸の大野で、海運業が栄え活気に満ちていました。綿屋、紺屋、晒屋、鍛冶屋、海鮮問屋の賑わいがありました。
大野は地頭のいる、今の役場があって、知多の中心地でありました。東海道を鎌倉から上ってきた場合、旅人たちはそこから海を経て、二日もあれば京へ上ることができたのです。

当時、海道は重要な往来の地であったことが鴨 長明(一一五三~一二一六年不詳)、歌人、代表作は『方丈記』)の『海道記』からも推察されます。
現在は、町の真ん中にありながら海道と言い、紺屋海道講中と石柱に書かれているのが不思議に思いました。そこで歴史辞典で調べてみました。『海道記』なるものが作者不明で存在するとありましたので、半田市の職員並松猛さんにインターネットで探してもらいました。すぐに返事があり、笠間叢書に江口正弘著『海道記の研究』という本があることもわかり、早速、取りよせて読んでみました。
『海道記』の著者、鴨長明は、源頼朝が幕府を鎌倉に開いたので、鎌倉を見聞に行く道中記として著わしています。
それによると、京都から鎌倉までのまわりの景色がよくわかります。四月四日暁に都を出て十]日に浜名湖に着き湖を渡るとあります。昔の人の健脚に驚いています。
鎌倉から上洛する場合は、安城、高浜、亀崎、乙川、半田、大野と大野海道を通ったようです。
鴨長明が鎌倉に行くときは、桑名から津島へ舟で、津島からは舟で萱津へ、陸路で鳴海へ、鳴海から干潟を馬で渡り雉鯉鮒(今の知立)に至ったとなっています。帰りは大野海道を通って大野で滞在しています。大野の海岸で「湯あみ」するという和歌を残しています。

註① 詠んだと伝えられているのは「生魚の御あへもきよし酒もよし 大野のゆあみ日数かさねむ」であります。
註② 「ゆあみ」は海水浴のこと大野が港として重要な役割を果たしたことは、常滑焼が瀬戸焼と並んで平安末期、中世六古窯の一つと数えられ製品の多くが積み出されました。常滑焼の「土がめ」が、埼玉県で見つかり、その作品は重要文化財となり、東京の国立博物館にあります。また、東北、九州でも発見され、広く交流があったことを物語っています。

『海道記』が書かれた十三世紀初頭に、親鸞聖人は茨城県の稲田の草庵に二十年にわたって布教傳道をしておられました。その草庵を弟子たちにまかせて京都に帰られます。ときに六十二歳(一二三四年)、三人の弟子と土ハに出発され、六十三歳(一二三五年)の時に京都に着いています。
それはちょうど鴨長明と反対の道筋を通っておられたことになります。三河安城の桑子の妙源寺、通称「柳堂」に四十日滞在された記録が残っています。
大野の光明寺の史料には、一二三五年、親鸞聖人が六十三歳のときに滞在され、天台宗の寺院から転派した記録があります。ここから聖人は大野海道を経て大野から舟で桑名へ上陸し、亀山、関を通って京都までお帰りになったと思われます。
昔の東海道の様子を偲ぶことができます。(以上抜粋)
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「生魚の~ 大野のゆあみ日数かさねむ」の句は昭和4年に書かれた大野町史に紹介されてますが、どの文献に載っていたとまでは書かれていませんでした。
大野町史の筆者・佐野重造氏は、どこでどのように、この句を見つけたのだろうか?
ずっと疑問に思ってました。

ふっとわいてでてきた
『海道記』
間違いなく、その句が書かれているのだろうか?
また、書いた人物は作者不詳?鴨長明?

当分、この書を追ってみたいと思います。(つづく)

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鴨長明が詠んだとされる大野の句を調べる2

海道記
海道記(かいどうき)は、中世三大紀行文(ほかに東関紀行、十六夜日記)のうちの一つで、
作者は、古くから鴨長明であるとされてきましたが、昨今になって、作者不詳となってます。
いつからそうなったかよくわかりませんが、1979年編纂の江口正弘著『海道記の研究』では、まだ鴨長明が著者である(「親鸞聖人の歩かれた道」より)といってるので、それ以後だと思われます。

大野町史(佐野重造著・昭和4)が書かれた時代は、
当然、「中世三大紀行文の一つである、あの有名な「海道記」(鴨長明著)の中に、大野の句が載っているぞ」状態であり、だから、あの句の出所はあえて書かなかったのでは・・・。
謎が一つ解けたような気がします。

筆者が誰にしろ、まず、本当にあの句が存在するのかの確認を急ぎたいと思います。(つづく)

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写真は、東海道風景絵図より。右上には「鴨長明海道記」より抜粋した句で

おとにきゝし名高き
山のわたりとて
底さへふかし
富士川の水
       長明

と書かれています。

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