歴史とロマンの町 大野町へ行こう!

セントレアのちょっと北「愛知県常滑市大野町」のまちおこしブログ

南吉が見た「大野のランプ」

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「これこれ、これだよ」と高橋さんが言う。
世間遺産のワークショップで散策の途中偶然見つける。
このランプがまさに南吉が見た大野のランプと同じと言うのだ。
笠がガラスでできていてシャンプーハットみたいになのがおもしろい。
どこでつくったんだろう?輸入品かな。
このランプについて、御存知の方、教えて頂けませんか。

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「大野町」が竜宮城のような町だった理由

nankichi2.jpg新美南吉の童話「おじいさんのランプ」の中に
大野の町のことがこう書かれています。

「ランプのために、大野の町ぜんたいが竜宮城かなにかのように明かるく感じられた。」

なぜ、当時大野の町ぜんたいが竜宮城のように明るかったのでしょうか?
その問いに、Tさん(本人が実名公表OKということで、これからは高橋さんと言います)がこう教えてくれました。
「街灯のない時代、商店の多い大野の町は夕方になると、防犯のため、一斉に店の軒下にランプを灯したんだ。街じゅうがランプの灯火に照らされていたんだよ」
「そうなんですか」

「ランプは確かこんな形をしていたぞ」と、高橋さんは私のメモ帳にランプの絵を描いてくれました。

ojiisanramp1.jpg(汚いメモ帳ですいません。)


南吉は街じゅうがランプに照らせれている大野の町を見て驚いた。
ならば、南吉童話「おじいさんのランプ」の町・大野町として
今の大野の街灯が、ランプの形をしてたら、面白いんじゃないかな?


ふとそんなことを思っちゃいました。

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検証「おじいさんのランプ」:大野に実在した「ランプ屋」てどこ?

nagaisyoten.jpg新美南吉の童話「おじいさんのランプ」にでてくる大野のランプ屋さんて、どこにあったんだろう?
以前から疑問に思っていました。
それが、ふとしたことでわかりました。
前に紹介した器の店「どかん屋」さんに、90歳を越える元気なおじいさんがいました。
そのおじいさんは、50年前に亡くなった私の祖父の名前も知っていて(私が産まれる前に亡くなっている)、いろいろとお話を伺うと地元の事が大変お詳しかったので、ひとつ質問してみました。
「おじいさんが小さい頃、大野にランプ屋さんありませんでしたか?」
「ランプ屋?ランプ売っとった店は一軒あったな」
「どこにありましたか?」
「十王堂の横、ほれ、今の農協のとこにあったよ」
「そうですか。ありがとうございます」

写真の地図は、明治40年に作製された大野の地図です。
「おじいさんのランプ」でおじいさんがランプを大野で購入した頃と時代が重なります。
ちょうど、大野(黒鍬)街道の終点が十王堂で、その横には「永井」とあります。
この地図の上に書いてあったのですが、ここは「永井商店」と言って、兜ビール・ミツカン酢・油類等を売っていた店です。
ランプとは書いてはありませんが、ランプには油がつきもの。
おそらく、ここでまちがいないと思われます。

南吉は大野(黒鍬)街道を歩いて大野に向かう。街道の終点には「永井商店」。店の中を覗くと、片隅に売れ残った時代おくれのランプが目につく。
「そういえば地元の岩滑は最近まで電気がきてなくて、この大野でランプを仕入れてたと年寄りが言ってたっけ。そうだランプを題材に童話を書いてみよう」
なんて思ったかもしれませんね。

『南吉童話「おじいさんのランプ」の中で、おじいさんがランプを購入した「大野のランプ屋」はここです。』ということで、まちおこしに利用できないものでしょうか?


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「新美南吉」と「大野町」

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半田市岩滑出身の有名な童話作家・新美南吉はよく大野町に訪れています。童話の中にたびたび大野が登場します。特に「おじいさんのランプ」では、日露戦争じぶんの頃の、繁栄していた大野の町の情景がリアルに描かれています。主人公の巳之助は、大野街道を通り、大野の町に行き、ランプを購入しました。


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その部分を抜粋、紹介します。

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「佐治与九郎覚え書」考

井上靖「佐治与九郎覚え書」は、井上靖(1907-1991)の初期の作品です。
昭和32年、小説新潮に連載され、後に、天目山の雲(角川文庫)・真田軍記(旺文社文庫)・楼蘭(ロマンブックス)の三つの各文庫本(三つ共、絶版)の中に収録されました。
昭和38年1月18日にはTBS系「近鉄金曜劇場」というテレビ番組で、この作品は放送されました。
脚色は依田義賢。主演は平幹二朗、八千草薫。

この作品のストーリーの後半、与九郎の消息ははっきりしていませんでしたね。
なぜ、京都に移り住んだのか。
史実をたどると、与九郎を保護していた織田信包は、1590年小田原征伐時に敵の助命を秀吉に嘆願したため秀吉の怒りを買い、1594年伊勢津城を改易される。それに伴い、剃髪して老犬斎と号し、京都の慈雲院に暮らしました。が、その後、秀吉の側近となり、まず近江を与えられ、そして1598年には丹波柏原を与えられました。私の推測ですが、物語通りでなく、与九郎は丹波柏原には信包と帯同せず、そのまま、京都に滞在したのではないでしょうか。強制的に離縁させられた秀吉の家臣にはなりたくなかったのでは…。
1610年、与九郎は信長の娘・お振(彼女も再婚)と再婚、嫡男為成 を儲けている。
将軍の妻となった小江(おごう)は、小江与(おえよ)と改名。
与九郎の「与」をとって付けたのではと、推測するのは流石に考えすぎか…。
ただ、互いの一番至福の時は、大野城にいた2年間であることはまちがいないと思います。


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「佐治与九郎覚え書」10

この小江の出産の噂は、江戸から遠く離れている丹波地方には一月ほど遅れて伝わった。
その日、巨哉こと佐治与九郎は所用あって柏原在へ出掛けて行ったが、柏原の城下の外れで、いずれも旅装束の十数名の騎馬の一団と出会った。
通行人たちは、その一団のために道を開いた。道はぬかるんでいた。与九郎は泥の飛沫をうけて、多少小癪に障る思いで路傍に立っていた。その時、与九郎の耳に、やはり傍に路をよけて立っている男の声がはいって来た。それによって、与九郎はいま自分の眼の前を過ぎて行く一団が、秀忠の室の男子出生を祝うために、この城からはるばる江戸へ出掛けて行く賀使の一行であることを知らされた。
与九郎はふらふらとその場に腰を下した。坐ってしまった時、自分でもどうしてそんなところへ坐り込んでしまったのか、はっきり判らなかった。
与九郎は多勢の通行人が怪訝そうに見返って行くのも構わず、虚ろな眼でそこに坐り込んでいた。その眼には、十三年前の自分の妻である。小江の、あまり美貌とは言えない、併し人を疑うことを知らないおおどかな顔が与九郎だけに見えていた。
与九郎にはもはや愛憎の観念はなかった。ただ、現在の秀忠の室である小江が、やはり昔のように自分に与えられている境遇に、たいして悦びもなくなく悲しみも感じずに坐っているのではないかという気がした。
そしてそんな彼女に、幸運というものが、今までもそうであったように、これからも、ゆっくりと着実な足取りでやって来るのではないかと思われた。
「徳川家は御安泰じゃ」
与九郎の口から、ふとそんな言葉が洩れた。皮肉でも自嘲でもなかった。若い頃の与九郎の声とは全く違った嗄れたものであった。小江の夫秀忠は将来将軍になるかも知れなかったし、こんど生まれた男児がそれに続いて将軍になるかも知れなかった。恐らくそのようなことも夢でなく、そのような幸運が小江を見舞って来るのではないかと思われた。
与九郎の予想通り、その後秀忠は二代将軍となり、小江の生んだ男児は三代将軍となった。
与九郎は寛永十一年九月26日七十歳で京都に歿しているが、どうして京都に住むようになったか、その間の消息は判っていない。「長徳院快岩巨哉居士」というのが彼の戒名である。また与九郎が師崎の千賀家に預けたおきた、おぬいのその後のことも判っていない。ただこの二人の娘たちが住んだ須佐村付近を「おきた脇」と呼ぶことはかなり後年まで続き、そこに聞母とは異なって不幸だった二人の娘が住んでいたことを物語っていた。(おわり)

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「佐治与九郎覚え書」9

小江が秀吉の養女となって、家康の長子である秀忠と伏見城に於て婚礼の式を挙げたのは、その翌年の文禄四年の九月のことである。小江は二十三歳、秀忠は十七歳であった。この時は婚儀の盛大さがやかましく噂され、その派手な噂の陰に匿れて、もはや佐治与九郎のことを思い出す者はなかった。与九郎の名は口に出されても、これはもはやこの世に居ない人間としてであった。与九郎は誰からも故人として取り扱われていたし、実際にまたそう思われていた。
丹波の小さい城下町に、彼が納衣を纏って生きていようとは、だれも想像だにしないことであった。
与九郎に嫁ぎ、秀勝に嫁ぎ、それぞれ不幸というべき結婚をしながら、次第に女としてのより大きい幸運を掴んで行く小江が、人々には異様な眩しさで見えた。
小江が、秀忠との間に一子を挙げたのは慶長九年七月のことである。秀吉薧(こう)じて七年経っており、家康は将軍職にあった。いつか時代はすっかり変わっていた。この時もまた小江のことが世間で噂された。
小江という女が、次々に夫を替えて、次々に違った胤の子供を産んで行くことが、多少揶揄的に取沙汰されたのであった。
併し、小江は今や将軍家康の嫡子秀忠の正室であり、江戸西城に於けるこんどの出産は大きい祝福を持って迎えられた。家康も悦んだし、諸国の武将たちからの賀使も毎日のように詰めかけた。(つづく)

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「佐治与九郎覚え書」8

柏原へ移ると、与九郎は剃髪することを信包に申し出た。信包は一応与九郎の決心を翻させようとしたが、
「拙者は大野城を失った時、自刃すべきでであったが、多少思うところあって今日まで生き延びて来ました。いまはその思うところも齟齬し、いつ相果てても惜しくはない生命であります。併し、いま自刃したら御迷惑がこのお家へ及ぶと思いますので、このまま生きて参りましょう。剃髪の儀だけはお聞き届け戴きたい」
与九郎は言った。
それから数日してから、与九郎は髪を落し、名を巨哉と改めた。この時与九郎は二十八歳であった。
与九郎が大野城を奪われた時、自刃しなかったのは、小江にもう一度会えるかも知れないという気持があったからである。小江に対して恋々たる情を持っていたというより、小江の身の上が案じられ、もう一度会わないことには安心して死んで行けない気持であった。与九郎にそうしたことを思わせるものを小江は持っていたのである。それが、小江と秀勝の婚儀という思いがけない事件で終止符を打たれ、与九郎は自分が恥を忍んでなんのために生きていたのか判らなくなったのであった。
剃髪して巨哉になってからの与九郎は、人を避けることと、誰とも言葉を交わさないことは前と同じであったが、その表情は見違えるほど穏やかになった。
そてから二年してもう一度佐治与九郎のことが世間に話題になったことがあった。それは小江の夫である秀勝が朝鮮に出征し、朝鮮で陣歿したことが発表された時で、文禄三年の春のことであった。この時は与九郎の恨みがついに秀勝を死に追いやったというような蔭口がきかれ、小江の二度目の結婚が持った不幸は、当然約束されていたことのように噂された。小江は秀勝との間に一女を儲けていた。(つづき)

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