歴史とロマンの町 大野町へ行こう!

セントレアのちょっと北「愛知県常滑市大野町」のまちおこしブログ

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「佐治与九郎覚え書」1

oonojo0.jpg 知多半島の大野城主佐治与九郎一成が、当時安土城にあって秀吉の庇護のもとに成人しつつあった、浅井長政の遺子である三人の娘たちの中の、一番末の小督(おごうと読む、以下は「小江」と書きます)を娶(めと)ったのは天正十四年のことである。この話は春に始まり実際に輿入れが行われたのは十一月の終りであった。与九郎は二十二歳、小江は十四歳、二人は婚礼の日まで一度も顔を合わせたことはなかった。
与九郎の母は織田信長の妹であり、小江の母もまた信長の妹であったので、二人は従兄妹関係にあるわけだったが、それぞれ幼い頃からきびしい運命の転変に揺すぶられ、容易ならぬ歳月を過去に持っていたので、お互いの存在など殆ど知っていなかった。それでも与九郎の方は安土城に自分の従妹にあたる三人の女性がいることは何となく知っていた。が、小江の方は与九郎などという名を聞いたこともなければ、その居城である大野という城がどこにあるかも全然知らなかった。
与九郎の父八郎信方は信長に随って天正二年に長嶋の役に出陣して討死していた。父の死後、与九郎は親族の者たちに援けられて、家をつぎ、幼少の頃は織田信雄のもとに人質に取られたりしながらも、隣接する諸勢力の間にあってよく父祖の地を全うし、現在家康、信雄の陣営に属して、その一方の武将としとて大野城六万石を領してる。小江の方は生れた年の天正元年に父長政を小谷城に失い、天正十一年には母お市の方と義父柴田勝家を北の庄に失っている。
この結婚には二人にとっては叔父にあたる織田信雄が仲に立っていた。与九郎一成は、小江の話が出た時、自分以上の不幸な過去を持って来た女を自分の妻に迎えることはいいと思った。會ては近江の豪族として鳴らした浅井の娘ではあるし、それに母方の織田の血もはいっており、家こそ潰れているが、まずこの時代では、一、二といっていい名門の出である。それに三年前に北の庄の城で勝家に殉じて自刃した母お市の方は、一世に知られた美貌の女性である。その娘であるから、恐らく小江もまたその麗質を受けついでいるであろうと思った。
輿入の日には、大野の城下には積ると思われぬ細かい雪が舞っていた。(つづく)

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「佐治与九郎覚え書」2

輿入の一行は雪の中を城下を突っ切って、城の方へゆっくりと進んで来た。城は海に迫っているひどく高低のある丘陵の上にあった。東西四町、南北一町、総廓九十二町一反、小さい丘全体が城廓になっている。本丸は丘陵の南の端にあり、その本丸の更に南に小さい櫓があった。そして本丸と櫓とを幅九間程の空濠が取り巻き、その外部に腰曲輪があり、更にまたその外部を深さ十八間程の谷が取り巻いていた。
行列は石畳の坂道を上って行き、中腹にある城門のところで停って、そこに輿を置いた。城門のわきには門火が焚かれ、花嫁を出迎える多勢の女房たちが腰をかがめて控えていた。輿入の格式にははまっていなかったが、与九郎はそこまで小江を出迎えた。
与九郎は輿から降りた背の低いずんぐりした花嫁を見て、小江が期待に反して少しも美貌でなく、平凡な顔立ちの娘であることを知った。下ぶくれの顔は愛らしいと言えば愛らしいと言えないこともなかったが、城下の町人の娘などにいくらでもある顔だった。
このことは与九郎ばかりでなく、その場に居た者たちの誰もが同様に感じたことだった。
ogou.jpg 人々は同じように白小袖を着た与九郎と小江とを、漸く暮れようとしている薄明りの中に並べて見て、自分たちの若い城主の室となる女性に軽い失望を感じた。どう見ても与九郎の方が引き立って見えた。与九郎は顔立ちも整っており、父譲りの精悍な凛々しいものを、その長身の躰につけていた。
「お疲れだったことであろう」
与九郎が言うと、
「疲れました。ずいぶん遠いんですもの」
小江は言って、何となく笑顔を見せた。そんなところは素直な感じだったが、笑うと、口が大きく、唇の厚いことが判った。
小江は最初侍女房に手を取られて歩き出したが、歩きにくいのか途中で相手から手を離すと、先に立って、多少手を振るような恰好でとことこと石畳を上って行った。(つづく)

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「佐治与九郎覚え書」3

与九郎と小江の夫婦仲は睦じかった。与九郎は小江が美人でないことには少しの不満も感じなかった。小江の神経質なところなどみじんもないおおどかな性格が好きだった。小江は一城の主の室であるといったようなつんとしたところはなく、可笑しいことがあれば場所を構わず待女たちと一緒に声を出して笑った。声は美しかった。城は小さく、生活も贅沢なことは許されなかったが、小江はいっこうに不満に思っている風には見えなかった。
小江は与九郎のところへ嫁いで来てから一度も城を出たがらなかった。小江のすぐ上の姉のお初は溝口城主京極高次の許に嫁いでおり、長姉の茶々はずっと安土城に留まっていたが、別に小江は安土にも帰りたがらなかったし、二人の姉たちにも会いたがらなかった。いかにも、現在の境遇に満足しているという様子であった。
小江が嫁いで三年目の天正十六年の春に、長姉の茶々は秀吉の側室に上った。この茶々の噂を耳にしても、小江は別に心を動かされる風だもなかった。姉との身分が隔たってしまったとも、また反対に、いかに権力者ではあれ、自分たち一門にとっては仇敵である秀吉のところへ茶々が側室として上ったということに対しても、格別特殊な感慨は持たないようであった。
与九郎はこうした若い妻に愛情を持っていた。saji2.jpg
いかなる立場にあっても、自分は自分だとして、自分にやって来る運命に従順で、いささかの不平や不満を持たないということは、やはり育ちから来るものあろうかと思った。小江は嫁いでから二年の間に二人の女児を生んだ。上の姫にはおきた、下の姫にはおぬいと名附けた。おぬいの方は生れながらの盲女であった。
茶々が側室に上った噂を聞いてから一年足らずして、この大野城の若い夫婦に全く思いがけない運命がやって来た。それは秀吉からの使者が来て、茶々が病気になり、病状捗々しくない故、小江に茶々の病気見舞に来るようにという秀吉の意を伝えたことだった。この使者から秀吉の伝言を聞いた時、与九郎は顔色を変えた。秀吉の命令通り、小江を茶々の許に差し出せば小江は再び大野城へ戻って来ることがないのではないかと思った。使者が帰ると、
「余と相聟(あいむこ)が不足か」
与九郎は呻くように言った。(つづく)



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「佐治与九郎覚え書」4

hideyosi.jpg「余と相聟(あいむこ)が不足か」
与九郎は呻くように言った。茶々と小江が姉妹なので、秀吉と与九郎は謂わば義兄弟の関係にあるわけであった。そんなことから秀吉は自分から小江を取り上げる腹ではないかと与九郎は思った。
それにもう一つ、与九郎には気になっていることがあった。それは天正十二年に家康、信雄の連合軍が秀吉と小牧で闘った時のことである。秀吉は佐屋川の舟を押さえ、家康の三河へ引き上げる退路を遮断した。ために家康は窮地に陥ったが、この時家康のために船を出して、その急場を救ってやったのは与九郎であった。この時の与九郎の措置に対して、秀吉がいい感情を持っていよう筈はなかった。秀吉が天下の権力者にのし上っている現在、何らかの形で、この報復はあるかも知れなかったし、またあっても不思議はなかった。
与九郎はその夜、小江に秀吉からの使者の趣を伝えて、二日後に茶々の居る淀城へ赴くように命じた。すると、小江は、
「それは困ります」
と、いかにも困惑した表情で言った。十日先に二人の姫のために桃の節句を控えており、その日は侍女たちと向い山で野宴を開くことになっている。それが済んでからならいいが、それがすむまでは行くわけには行かない。これが小江の言分だった。与九郎が何分天下の権力者である秀吉の命令であるから、それまでの猶予は難しかろうと言うと、
「関白様の御命令でも、それくらいは待って戴けましょう」
小江は言った。秀吉の命令より、自分の娘のための桃の節句の方を大切に考えている、怖いもの知らずの室の言葉が、与九郎の耳には快く響いた。
与九郎がそうした我儘の許されぬことを説明すると、小江は暫く考えていたが、
「では、参りましょう」
と、こんどは素直に言った。与九郎はそんな小江に、
「こんどの上洛は単に淀殿のお見舞とのみは受け取れぬ、何か裏に他の意味があるかと思う」
と言うと、初めてそのことに気づいたとでも言った風に、小江ははっと顔を上げると、
「お城替えでございましょうか」
と言った。
「お城替え!?」
「もっと大きいお城へ替えるようにというお達しがあるのではございませぬか」
心からそう思っている小江の表情であった。
「そうかも知れぬ」
与九郎はそう言った。人を疑うという気持ちを全く持ち合わせていない若い妻に対して、他のいかなる言葉も口から出すことはできなかった。(つづく)

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「佐治与九郎覚え書」5

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二日間に小江の旅立ちの支度は調えられた。与九郎は小江を茶々の病気見舞にやるというより、秀吉のもとに送り届けるといった気持ちの方が強かった。与九郎は日頃小江に仕えていた侍女たちを、あるいは再び戻って来ないかも知れない自分の室に附けてやることにした。
小江の旅立ちの支度が調えられている間、与九郎の気持は複雑だった。権力者に対する反抗と諦めの気持が交互に若い武将の心を襲っていた。そしていよいよ小江が出発する日の朝、烈しい怒りが与九郎を襲った。小江はすっかり旅支度を調えて、挨拶にやって来た時、与九郎は、
「仔細あって生かしておくわけには行かぬ」
そう言うや否や、彼は槍を取り上げ、穂先を小江に向けて構えた。どうしても小江を秀吉の許に差し出すわけには行かぬといった気持だった。
すると、小江はその場に坐ったまま、眼を軽く閉じ、
「どうぞ」
と言った。いつもの澄んだ声だった。
「突くぞ」
「どうぞ」
それから小江は眼をつむったまま、いかにも可笑しそうに低い笑声を口から洩らした。
「何が可笑しい!怖くはないのか」
与九郎は訊いた。すると、その時、小江の口が動いた。
「おまじないでは三遍突くのでございましょう」
与九郎は自分の耳を疑った。
「なんと?」
「おまじないでは」
「まじないと思っているのか」
与九郎は瞬間躰の緊張の解けて行くのを感じた。いっきに毒気を抜かれてしまった気持だった。小江は自分のために、夫が旅の道中の無事を祈るまじないをしてくれるものと許り思っている風であった。
与九郎は血の気を失った顔で、三度槍を突き出し、三度とも小江の胸許一尺程のところで停めると、
「よし、これで何事もなかろう」
と、自分でもそれと判る乾いた声で言った。
小江は目を開けると、二年前の婚礼の時、城門の横で輿から降りた時笑ったように笑った。その邪気のない笑顔は与九郎にはやはり美しく見えた。与九郎はこの時ほど小江に夫としての深い愛情を感じたことはなかった。そして今こそ小江を自分の手から放してやろうと思った。彼女の持っている運命がどのようなものか判らなかったが、ともかくその流れの中へ放してやろうと思った。
小江はその日、大野城を発った。十幾つかの輿が並び、その前後を騎馬の集団が固めていた。婚礼でもない、かと言って普通の旅立ちでもない異様な行装の隊列は、丘陵の城を出て、足場の悪い石畳の坂を、早春の弱い陽を浴びて降って行った。(つづく)

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「佐治与九郎覚え書」6

与九郎一成の危惧は間もなく現実となって現れた。
秀吉からの使者が来たのは、小江が大野城を発って行ってから二十日程してからだった。小江が淀城で発病し、当分帰れないから承知して貰いたい。こういう使者の口上だった。
口調は鄭重であったが、一方的な通告であった。それから更に十日程して小江と一緒に行った侍女たちだけが帰されて来た。侍女たちは淀城へはいってからの小江については何も知っていなかった。彼女たちは城へはいると同時に小江とは離されてしまい、そこで退屈で不安な何日かを過し、それでも最後に一通り都を見学させて貰って帰されて来たのであった。
与九郎はかねて覚悟していたことではあったが、秀吉に対して烈しい怒りを覚えた。併し、どうすることもできなかった。織田信雄にも使者を立てて相談したが、そのままにして成行を見ている以外仕方がないだろうということであった。
odanobukatu.jpg明けて天正十八年に、小江を取り上げられた佐治与九郎には更に決定的な悲運が見舞って来た。それは彼の主である織田信雄が奥州へ国替えさせらると同時に、与九郎はその居城大野城を召し上げられることになったのであった。多年秀吉とよくなかった信雄も思いがけない秀吉の報復を受けたわけであったが、それと一緒に与九郎の方も片附けられててしまった恰好だった。与九郎は城を出なければならなかった。死を賜らないことがせめてものめっけものと言わねばならなかった。延文年間以来代々地方の豪族として、知多半島一帯の地に勢力を張っていた佐治氏は、ここに滅亡の運命に立ち到ったのであった。
大野城を失った佐治与九郎一成は、浪々の身を一時血縁の関係にある師崎の千賀家に寄せたが、おきた、おぬいの二人の娘をそこへ預けて、自分は伊勢の安野津城主の織田信包(のぶかね)を頼った。信包は与九郎の伯父に当る人物であった。そしてそこで与九郎は無役のままで、五千石の棄扶持を与えられた。(つづく)


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「佐治与九郎覚え書」7

伊勢へ行ってからの与九郎は、彼を知っている者には全く別人としか見えないような風貌に変わっていた。併し、そうした与九郎を知る者も極く僅かしかなかった。与九郎は小さい侍屋敷に篭ったまま一切どこへも出ず、人に姿を見られることも極力避けていた。ただ一年に一回だけ庇護者である。織田信包と会った。それは織田一門の供養の行われる日で、その日だけは城内に伺候し、信包と会って短い言葉を交し、それから城下の外れにある寺へ向った。
この日信包と与九郎が会う席に居合せた者だけが与九郎の変わった風貌に接することができた。大野城主であった頃の精悍な表情は全くなくなっていた。年齢のはっきり判らぬ憂鬱そうな面貌を持った長身の武士は、信包に対してだけ低く口を開いたが、何を言っているのか、その言葉が殆んど聞き取れなかった。信包以外の誰かが話しかけても、与九郎は決して返事をしなかった。それが唯一の己が運命への反抗であるかのように、彼は執拗に無言を守った。そうした与九郎の態度は、誰にもいい印象を与えなかった。人々は妻と城とを奪われた哀れな男として、与九郎を見た。
与九郎が城を失ってから三年目の文禄元年の春に、世に丹波少将と呼ばれていた羽柴秀勝と小江との婚儀が発表された。秀勝は信長の第四子で、秀吉の養子であったので、この婚儀の噂は世間に賑やかに流布された。秀勝は二十六歳で、小江は二十歳であった。
世間ではこの一時期、佐治与九郎のことを思い出したが、与九郎が信包の庇護のもとに生きているということを知っている者は極く一部の者だけであった。多くの者は誰が言い出したものか判らなかったが、大野城没落と共に与九郎が自刃して相果てたという噂を信じていた。
こうしたことがあってからも間もなく、この年の秋に織田信包は伊勢の安野津城から丹波の柏原城へと移封を命じられた。この信包と一緒に、与九郎一成もまた柏原へ移って行った。(つづく)

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「佐治与九郎覚え書」8

柏原へ移ると、与九郎は剃髪することを信包に申し出た。信包は一応与九郎の決心を翻させようとしたが、
「拙者は大野城を失った時、自刃すべきでであったが、多少思うところあって今日まで生き延びて来ました。いまはその思うところも齟齬し、いつ相果てても惜しくはない生命であります。併し、いま自刃したら御迷惑がこのお家へ及ぶと思いますので、このまま生きて参りましょう。剃髪の儀だけはお聞き届け戴きたい」
与九郎は言った。
それから数日してから、与九郎は髪を落し、名を巨哉と改めた。この時与九郎は二十八歳であった。
与九郎が大野城を奪われた時、自刃しなかったのは、小江にもう一度会えるかも知れないという気持があったからである。小江に対して恋々たる情を持っていたというより、小江の身の上が案じられ、もう一度会わないことには安心して死んで行けない気持であった。与九郎にそうしたことを思わせるものを小江は持っていたのである。それが、小江と秀勝の婚儀という思いがけない事件で終止符を打たれ、与九郎は自分が恥を忍んでなんのために生きていたのか判らなくなったのであった。
剃髪して巨哉になってからの与九郎は、人を避けることと、誰とも言葉を交わさないことは前と同じであったが、その表情は見違えるほど穏やかになった。
そてから二年してもう一度佐治与九郎のことが世間に話題になったことがあった。それは小江の夫である秀勝が朝鮮に出征し、朝鮮で陣歿したことが発表された時で、文禄三年の春のことであった。この時は与九郎の恨みがついに秀勝を死に追いやったというような蔭口がきかれ、小江の二度目の結婚が持った不幸は、当然約束されていたことのように噂された。小江は秀勝との間に一女を儲けていた。(つづき)

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