歴史とロマンの町 大野町へ行こう!

セントレアのちょっと北「愛知県常滑市大野町」のまちおこしブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

PageTop

広く展示紹介されている「大野鍛冶」

oonolaji.jpg
「大野鍛冶」は、県下では、豊橋の「吉田鍛冶」と共に有名です。
鎌倉時代、近江国からここ大野に移り住んだのが最初とされています。
最初は鐙(あぶみ)鍔(つば)を作っていたそうですが、農工具を主体に作るようになりました。
江戸時代には、大野を中心に知多半島に185軒もの大野鍛冶がいました。
大野鍛冶の特徴は「出鍛冶」であったことで、三河や美濃そして信州まで出かけて鍛冶をやっていました。

東海市の愛知製鋼「鍛造技術の館」知多市歴史民俗博物館名古屋市博物館で「大野鍛冶」についての展示があります。

スポンサーサイト

PageTop

400年以上続いてる伝統行事「大野谷虫供養」

大野を中心とした一帯で「大野谷虫供養」という400年もの歴史をもつ行事があります。
当初は「刀供養」と呼ばれ戦国時代に滅亡した佐治氏の霊を慰めたものでしたが、やがて、駆除した生物の霊を慰め、五穀豊穣・家内安全を祈願したものになりました。
この伝統行事は、道場での供養・お阿弥陀さんの巡回・彼岸大法要の三大行事からなるもので、大野谷13か村が持ち回りで行ない、道場供養は毎年12月15日から翌年の1月15日まで、当番地区に道場が設けられ、阿弥陀如来などの掛軸が懸けられます。今年は羽根地区が担当です。昭和58年には県指定無形民俗文化財に登録されました。
musikuyo3.jpg musikuyo4.jpg
(左)虫供養道場ののぼり (右)町中に張り巡らされる善の綱

虫供養の年当番
子(ねずみ)北粕谷/丑(うし)矢田/寅(とら)大興寺/卯(うさぎ)西之口/辰(たつ)上げ・松原/巳(へび)南粕谷/午(うま)小倉/未(ひつじ)宮山・石瀬/申(さる)榎戸/酉(とり)権現/戌(いぬ)大草/亥(いのしし)羽根

musikuyo1.jpg

PageTop

意外!和時計の生産地だった大野町

IMG_5283.jpg 天保の頃(1830~43)大野の市場出身の井上恵春が長崎で時計技術を学び、大野で時計細工を始めました。
縣時計・檜時計・黒壇製尺時計・枕時計・印籠時計等多くの和時計を作りました。
弟子も数多く竹内常吉、井上安蔵、小牧清七、竹内源兵衛、竹内仙吉、竹内和兵衛、竹内興吉、杉浦次郎吉、加藤音八、畑中一造等がいて、名古屋の時計師の先祖が大野の時計師のお弟子であったことは、大野に語り継がれてきた話です。京都、大阪からも注文があり、また時計の直し物は、名古屋でも修理できない物は大野へ送られたといいます。
明治維新になって、外国製の時計が続々輸入されるようになり、和時計は衰退の一途をたどりますが、日本に来た外国人が、大野時計の精巧さに驚き、買い集めて骨董品として逆に輸出されました。
後日談ですが、井上恵春の子孫が、なんと知り合いのきょう屋さんち!「蔵の中に和時計残ってない?きょう屋で個展やろうよ」「残念だけど一つも残ってないの」ガクッ!

写真は、古今散策の時、ギャラリー善八さんに展示された「檜(やぐら)時計」です。

PageTop

存在!「大野音頭 」

大野町は、昭和28年常滑市に編入される前は知多郡大野町でした。
大野音頭がありましたので、それを紹介します。
どのように歌うのか、わかる方いらっしゃいませんか?

「大野音頭」

作曲 佐々木 英   
作詞 驚山隠士

大野よいとこ磯馴(いそなれ)の松 銀のいさごに チョイト 波が散る
         ヨイヤサ ヨイヤサノ ヨイトサー アノサ
昔尾張の大殿様も 大野なりゃこそ チョイト 汐(しお)湯治(とうじ) 
         ヨイヤサ ヨイヤサノ ヨイトサー アノサ
慈悲はかがやくあの浜薬師 お礼参りは チョイト 胸の内
         ヨイヤサ ヨイヤサノ ヨイトサー アノサ
伊吹(いぶき)颪(おろし)も今宵は吹くな 可愛い主(あるじ)さん チョイト 牡蠣(かき)の舟
         ヨイヤサ ヨイヤサノ ヨイトサー アノサ

ond2.jpg
大野町町制60周年記念の提灯

ondo1.jpg

昔、大野海水浴場は大変賑わいました。

PageTop

「大野行進曲」も存在!

「大野行進曲」

大野よいとこ 名古屋も近い
浜は薬師の 汐湯治
ちょいとミソめた さらしや娘
忘れられよか ケーキの香

山はさくらか 汐干の海か
中の葦洲(よんず)に 潮満ちて
ゆれる葉影に 慈なく千鳥
もえる若めに ハートの浪よ

古い浜辺も モダンな姿
色のパラソル チラホラと
昼は泳いで 夜は舟まつり
花火すずしや ボートの上よ

秋は紅葉か 青海山に
のぼる月夜の 舟のかげ
昔や佐治様 今城あとに
虫はしのびの コーラス姫よ

雪の鈴鹿に 夕日が赤い
沖の白帆も 港入り
大野よいとこ 宵町小町
町に流るる
ジャズの昔よ


海をモチーフに、少しハイカラな歌詞ですね。
「行進曲」とのことですが、どんな時に歌われたんでしょうか?

kousinkyoku1.jpg
大野海岸にあった演芸場

PageTop

「バタン島漂流記」~大野の漂流記~

この話は、1668年(寛文八年)大野村木之下町権田孫左衛門率いる15人の船員が乗った千石船(材木商船)が江戸からの帰り路に遭難。約1ヶ月漂流した後、バタン島(フィリピン北部)に漂着。ここで土人に奴隷としてこき使われ、苦労の末、命がけで大野に帰ったという物語です。

詳しくは、こちら

fune.gif

PageTop

各地で高い評価の「大野の黒鍬」

新美南吉の童話にも度々登場する、大野から半田・亀崎に至る「大野街道」は、
かつて「黒鍬街道」とも呼ばれていました。
100年ほど前までの大野街道は、鍬頭と呼ばれる親方を中心に、黒鍬衆と呼ばれる10~30名ほどの集団が行き来していました。
黒鍬とは、一般の土や石を運搬する人足とは別に組織される土木技術者集団のことです。

onokaidou1.jpg以前に述べた「大野鍛冶」と、「大野の黒鍬衆」とは密接で、大野鍛冶が作った鍬の一種に、刃先の巾が約24㎝、重さが約2.25㎏と、普通の鍬の約2倍の大きさと重さの鍬があります。
その道具としての黒鍬は、「竹の根を切るのは豆腐を切るがごとし」「池などを新しく掘る時は、ほかの鍬の3挺分の働きをする」ほどの威力がありました。

この黒鍬が得意とした工事は堤造りで、雨池を造ったり、海岸や川岸に土手を築いたり、というのが黒鍬の活躍の場でした。
知多半島に数多くある雨池も多くは黒鍬が築造したものと思われます。農閑期には三河・美濃・伊勢地方、さらには京都・奈良・大坂など遠く近畿地方にまで出稼ぎに行っていました。
製塩で有名な赤穂でも塩浜の堤普請を請け負っています。
大野の黒鍬の技術は各地で高い評価を受けていたのです。

写真は大野街道の終点。新美南吉・黒鍬衆はまちがいなくこの街道を通りました。

大野街道終点

PageTop

大野城主・佐治氏の話

tizukosaji.jpg
十四世紀の中頃、一色氏が、青海山に大野城を築き、大野湊を中心に伊勢湾の海運を手中におさめ、知多半島の実権を掌握してました。そんな中で、近江国甲賀郡佐治郷の甲賀武士・佐治一族の中の佐治備中守が、一色氏の重臣に迎えられました。やがて、一色氏に仕えた駿河守宗貞は、主家の内訌をついて勢力を拡大、ついには一色氏を逐って大野城主となりました。
そして、駿河守宗貞のあと、上野守為貞(為景とも)、八郎信方(為興とも)、与九郎一成と四代続きました。
佐治氏は緒川城の水野氏と知多半島を二分するほどの勢力を持ち、大野衆と呼ばれる佐治水軍の将として伊勢湾全域の海上交通を掌握しました。
以前にもお話しましたが、四代目与九郎一成の、母は信長の妹「お犬」、正室は信長の妹「小市」の三女「小江」。佐治氏は信長に重用されていたことがこのことでわかります。しかし、本能寺の変で信長の死後、小牧・長久手合戦においては信雄・家康方についたため、秀吉の怒りを買い、戦後、小江と離縁させられ、さらに所領没収のうえ追放処分となりました。(この頃、秀吉の理不尽ともいえる甲賀破議によって、甲賀武士たちも没落の憂き目となり、甲賀佐治城も落城・没落しました)
ちなみに、大野鍛冶のルーツも近江から来た職人が始まりだそうです。

sazi_k.jpg


甲賀武士と甲賀・知多大野の佐治一族 甲賀武士と甲賀・知多大野の佐治一族
長坂 益雄 (2005/04)
ブイツーソリューション

この商品の詳細を見る


PageTop
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。