歴史とロマンの町 大野町へ行こう!

セントレアのちょっと北「愛知県常滑市大野町」のまちおこしブログ

大野に海女さん

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これ、猥褻画像じゃありません。
昔はよく、大野海水浴場に、伊勢志摩から海女さんが観光PRに来られたそうです。
その時の写真です。
私、数年前伊勢志摩へ行って海女さんのデモンストレーション見た時は
ちゃんと上半身も身を纏っていましたけど、昔はそうじゃなかったみたいですね。
江戸時代に描かれた『尾張名所図会』の中の潮湯治をしている女性や
明治時代の頃の女相撲の写真も平気でおっぱい丸出しだったし、
昔は今より性が開放的だったのでしょうか?


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大野海水浴場の立役者・後藤新平

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大野海水浴場は、「世界最古の海水浴場」とも呼ばれる古い歴史を持つ。
1881(明治 14)年、. 愛知県病院長だった後藤新平がこの地を訪れて現地調査を行い、
日本最初の海水浴啓蒙書とい.われる『海水功用論』を著した。
これをきっかけに加温海水浴場など設備も整えられ、旅館も多数建設された。
いわば、後藤新平は大野海水浴場の功労者だ。
上の写真は、大正9年大野町役場で撮られた貴重な写真。
前列中央の白い服が、当時内務大臣だった後藤新平です。
周りは当時の大野の有力者達。
前列向かって左から二人目は大庄屋・平野助三郎。
それ以外の人の名ははわかりません
御存知の方、御一報を。

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大野の「大政」を追え!12

仮説・次郎長と大政との出会い  2

江戸時代の大野村は海運業で賑っていた。
「寛文覚書」(1660年頃)によると村の持つ廻船の数は知多一で、半田村35に対して、大野村65にもなっている。
特に「洲岬(スザキ)屋」(仮称)は大野の廻船問屋の中でも最も栄華を極めた。
「大野湊に洲岬屋が荷を降ろさない日はない」とまで言われた。
天明時代(1785年頃)、大飢饉より尾張藩は財政が貧窮し、藩内の豪商たちに上納金を申しつける。殆どの豪商たちは数十両だが洲岬屋だけが二百両と特出している。
そんな洲岬屋も幕末になると徐々に商売に翳りが見え始める。さらに悪いことに洲岬屋の廻船が時化に遭い、沈没。一挙に大きな損害を被り、経営は悪化の一途を辿った。

そんな洲岬屋の旦那・九郎右衛門には長年連れ添った妾がいた。
元芸者で名をお凛(りん)という。二人の間には熊蔵という男の子がいる。
ある日、九郎右衛門はお凛の元に行く。
「おまえさん」「お凛はじっとしてろ」
お凛はここ半年ほど前から病の床に伏していた。
「大丈夫ですよ。お茶くらい出しますよ」
「今日は熊蔵に用があってきた。熊蔵、大きくなったなあ。いくつになった」
「15になりました」
「そうか。熊蔵は頭もいいし、人徳もある。おまけに体も俺に似て大柄で丈夫だ。いずれ、洲岬屋の番頭になってもらいたかった。しかし、もう洲岬屋はだめだ。それどころか、お前たちを養うこともできない。いいか。これからはおまえが母を守れ。おまえは男だ。裸一貫自分の道は自分で切り開け」
「はい」熊蔵は小さくうなずく。
「もうこれが最後だ。大事に使え」九郎右衛門は5両を手渡す。1・2年は暮らせる大金だ。
「父上、このお金は受け取れません。こんな時期ですから、洲岬屋のために使ってください。今までも充分すぎるほど面倒みて頂きました。寺子屋までいかせてもらって学問までさせてもらいました。ありがとうございます。これからは父上がおっしゃったように裸一貫自分の道は自分で切り開きます」
「お凛、おまえは熊蔵を立派に育てやがって」
「そりゃ、おまえさんがくれた宝物だもの。ちゃんと育てなきゃバチがあたるよ。私だって元は大野一の芸者だよ、少し位の蓄えはあります。どうぞその金は引っ込めてください」
「すまねえ」
「そうだ、久しぶりに私の三味線聴いておくれ」
「無理すんな」
「大丈夫だよ、私、弾きたいんだよ。特におまえさんの前で。弾かせておくれ」
お凛は、当時北前船の船頭達がよく唄っていた下津井節を唄う。彼女は、その唄に大野の句をいれ替え歌で唄うのが客に好評だった。

♪大野よいとこ磯馴の松 銀のいさごに チョイト 波が散る
         ヨイヤサ ヨイヤサノ ヨイトサー アノサ ・・・

お凛が作ったこの句は後々まで唄い継がれる。
そして、後年、「大野音頭」の歌詞にとして大いに参考にされる。
(つづく)

「大野音頭」 ←クリックすると曲が流れます。


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月刊「大野町ばかり行かない」 5号

「不可能を可能にする方法」

「出来ないと言うことは、出来ると言うよりずっと難しい。
ひとつでも可能性があれば出来ると言えるけれど、
可能性を全て探らなければ出来ないとはいえないからだ 」

この名言は、新幹線をつくった男・島秀雄の言葉だ。
とかく、固定観念や先入観で、最初から「駄目だ」とか「無理だ」とか言ってないだろうか。
勝手に不可能だと決め付けていないだろうか。
私の周りにはそういう人がいる。
そういう人に限って、私がやってしまうと
「そんなの誰だってできるがや」という態度をとる。
志とか目標が持ったら、この島さんの言葉を私は思い出してみる。
案外できちゃう場合が多い。

ちょっとトレーニング。
あなたは、指輪を手で触れずに上に移動することができますか。
下のマジックの動画を見てください。


Cyril-佐藤政道-魔術教學-戒指上升術 @ Yahoo! Video


タネがわかれば「なあんだ」ですよね。
でも世の中そういう場合が多いのです。
まずは最初から不可能と決めつけるのは止めましょう。

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大野の「大政」を追え!11

仮説・次郎長と大政との出会い 1

次郎長の任侠デビューは遅い。
天保13年(1842)の秋、23才の時だ。
次郎長は大きな米屋の若旦那だったが、喧嘩や酒が原因で店を勘当され、無宿者となる。
遊び仲間の江尻の熊五郎、庵原の広吉を従え、向かった先は、三河寺津(西尾市)の治助親分のところ。
以前、彼は次郎長の家に厄介になったことがあり、その縁で、次郎長は彼のもとに身を寄せる。
昼は、今天狗と呼ばれた剣術の達人・吉良の武一について剣術を学び、夜は賭博に明け暮れる。
こうして、次郎長は侠客の道に入っていったのだ。
次郎長は特にサイコロ賭博の腕をメキメキ身につける。連戦戦勝。
そんなある日、次郎長は賭博で大負けして困っている一人の男の負け分を立て替えてやる。
その男の名は鶴吉。同じ治助親分に身を寄せてるものだ。
「すまねえ、次郎長兄貴。この借りは必ず返しますから」
「気にすんな。同じ釜の飯を食ってる仲じゃねえか。ところで鶴吉。てめえの国はどこだったかな」
「尾州の大野湊(現愛知県常滑市大野町)です」
「ほう、いいとこじゃねえか。ここから5里ほどで、そう遠くはねえな。どうだい今度案内してくんねえか」
「お安い御用で」
次郎長は観光が目的ではない。
当時、大野湊は海運業で随分繁栄していた町であり、賭場が10箇所ほどあった。次郎長はいつまでも寺津の賭場ばかりで勝ち続ける訳にはいかなく、別の土地の賭場も探していた。
鶴吉もそれを充分承知していた。
その後、鶴吉は常に賭場に行く次郎長に帯同するようになり、いつの間にか親分子分の間柄となる。
弘化2年(1845)、次郎長は、遠州川崎で争いごとから負傷。傷を直して清水に帰る。津向の文吉と和田島の文左衛門が庵原川で対決しているところを仲裁し、一挙に侠客としての名声が高まる。
そして、翌弘化3年(1846)8月上旬。
「おい、鶴吉。今、大野は潮湯治客で人が一杯の時期だろ。一稼ぎしに行かねえか」「わかりやした」
次郎長と鶴吉は久しぶりに大野に向かう。
後の大政となる少年・熊蔵と会うのはその時だった。
(つづく)

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