仮説・次郎長と大政との出会い 2江戸時代の大野村は海運業で賑っていた。
「寛文覚書」(1660年頃)によると村の持つ廻船の数は知多一で、半田村35に対して、大野村65にもなっている。
特に「洲岬(スザキ)屋」(仮称)は大野の廻船問屋の中でも最も栄華を極めた。
「大野湊に洲岬屋が荷を降ろさない日はない」とまで言われた。
天明時代(1785年頃)、大飢饉より尾張藩は財政が貧窮し、藩内の豪商たちに上納金を申しつける。殆どの豪商たちは数十両だが洲岬屋だけが二百両と特出している。
そんな洲岬屋も幕末になると徐々に商売に翳りが見え始める。さらに悪いことに洲岬屋の廻船が時化に遭い、沈没。一挙に大きな損害を被り、経営は悪化の一途を辿った。
そんな洲岬屋の旦那・九郎右衛門には長年連れ添った妾がいた。
元芸者で名をお凛(りん)という。二人の間には熊蔵という男の子がいる。
ある日、九郎右衛門はお凛の元に行く。
「おまえさん」「お凛はじっとしてろ」
お凛はここ半年ほど前から病の床に伏していた。
「大丈夫ですよ。お茶くらい出しますよ」
「今日は熊蔵に用があってきた。熊蔵、大きくなったなあ。いくつになった」
「15になりました」
「そうか。熊蔵は頭もいいし、人徳もある。おまけに体も俺に似て大柄で丈夫だ。いずれ、洲岬屋の番頭になってもらいたかった。しかし、もう洲岬屋はだめだ。それどころか、お前たちを養うこともできない。いいか。これからはおまえが母を守れ。おまえは男だ。裸一貫自分の道は自分で切り開け」
「はい」熊蔵は小さくうなずく。
「もうこれが最後だ。大事に使え」九郎右衛門は5両を手渡す。1・2年は暮らせる大金だ。
「父上、このお金は受け取れません。こんな時期ですから、洲岬屋のために使ってください。今までも充分すぎるほど面倒みて頂きました。寺子屋までいかせてもらって学問までさせてもらいました。ありがとうございます。これからは父上がおっしゃったように裸一貫自分の道は自分で切り開きます」
「お凛、おまえは熊蔵を立派に育てやがって」
「そりゃ、おまえさんがくれた宝物だもの。ちゃんと育てなきゃバチがあたるよ。私だって元は大野一の芸者だよ、少し位の蓄えはあります。どうぞその金は引っ込めてください」
「すまねえ」
「そうだ、久しぶりに私の三味線聴いておくれ」
「無理すんな」
「大丈夫だよ、私、弾きたいんだよ。特におまえさんの前で。弾かせておくれ」
お凛は、当時北前船の船頭達がよく唄っていた下津井節を唄う。彼女は、その唄に大野の句をいれ替え歌で唄うのが客に好評だった。
♪大野よいとこ磯馴の松 銀のいさごに チョイト 波が散る
ヨイヤサ ヨイヤサノ ヨイトサー アノサ ・・・
お凛が作ったこの句は後々まで唄い継がれる。
そして、後年、「大野音頭」の歌詞にとして大いに参考にされる。
(つづく)
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